常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第三章 関東公方の北総支配と豊田氏

第一節 南北朝内乱期の常総

鎌倉時代末期の常陸・北下総地方には、依然として北条氏の勢力が強固で、豪族小田氏や常陸大掾氏、佐竹氏、結城氏、山河氏(結城氏の支族)なども完全にその支配下におかれていた。事実、北条氏得宗の支配下におかれた地域は、多珂郡、佐都東郡、久慈東郡、久慈西郡、那珂東郡、那珂西郡、中郡荘、北郡、筑波北条・田中荘の一部、南条片穂荘、信太荘、下妻荘、西郡北条、西郡南条、下河辺荘などに広がり、佐竹、小田、宍戸、関、下妻、真壁、伊佐氏などの所領が北条氏によって奪われていた(前掲『県史』)。
 しかし中央では、大覚寺統から即位した後醍醐天皇が親政をおし進め、記録所を再興するなど、活発な政治を展開した。当時は、鎌倉幕府の得宗専制政治に対する御家人の反発が高揚し、畿内では新興武士悪党などの動きが活発化していた。こうした中で、後醍醐天皇は正中元年(一三二四)、討幕の計画をたてたが、幕府側の知るところとなり、失敗した。これを正中の変という。その後、元弘元年(一三三一)にも挙兵したが捕えられ、天皇は隠岐に流された。翌二年に入ると、天皇の皇子護良親王や楠木正成、さらに畿内の反幕府の新興武士を加えて、幕府軍と対戦した。同三年、後醍醐天皇は隠岐を脱出することに成功し、諸国の反北条側の武士も天皇方に味方する者が多くなった。常陸にあっては、小田高知・時知・貞知、二階堂氏、伊賀氏、鹿島氏の一族塙政茂、徳宿幹宗、宍戸知時、税所久幹・幹国等が、下総にあっては結城宗広が後醍醐天皇方についた。こうした状勢の中で、幕府の有力武将足利高氏(のち尊氏)は天皇方について、六波羅探題を攻め滅ぼした。一方、関東では新田義貞が幕府の本拠地の鎌倉を攻め、北条高時以下の北条氏一族を滅ぼした。こうして鎌倉幕府は滅亡した。
 

Ⅲ-1図 後醍醐天皇肖像(朝日百科,平凡社)

 後醍醐天皇は京都に帰り、天皇政治の理想の時代といわれた醍醐・村上天皇のころの政治(延喜・天暦の治)を理想とし、新しい政治を行なった。この政治を建武の新政という。新政府は、中央に記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所を設置し、地方に鎌倉将軍府、陸奥将軍府、諸国に国司・守護を併置し、天皇親政の政治機構を整えた。だが現実には、公家側の中心の護良親王と武家側の中心の足利尊氏の対立が表面化し、親政は安定を欠いたものであった。
 こうした中、常総内の北条氏得宗の旧領のうち、田中荘、北郡、信太荘は足利尊氏に、那珂東郡は足利直義に恩賞として与えられ、佐都荘、東岡田・西岡田両郷の本家職、領家職を京都の臨川寺領として、夢窓疎石に安堵された。また、久慈西郡瓜連は楠木正成に与えられた。だが、中郡荘、関郡、下妻荘などの北条氏旧領は、新政権によって没収されたとみられるが、北条政権下以前の領主に戻されたとは断定できない。むしろ小田治久と同様、新政府の統治下に入っても、常総の武士たちには返還されず、建武の新政府に対する失望が大きくなる結果となった。