常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第二章 親鸞と武士と民衆

第三節 板碑と信仰

まず、町内の板碑のうち常陸型の四基からみてみよう。一覧表の通し番号の二三、二四、二五、二九番がそれである。これらは、もと蔵持の向山河岸の字引手山にあったもので西福寺には明治以前に、また蔵持公民館の地には、鬼怒川の護岸工事に伴って昭和五年に移されたものである。現在は、平将門や平良持の供養塔として祀られている。
 それぞれ分厚い石材を若干成型したうえで本尊としての種子(梵字によって仏・菩薩を表す)や銘文を刻んだもので、地上からの高さは一・八メートルを超すものもある。
 銘文にみる造立年月日は、建長五年(一二五三)十一月四日、同六年二月十四日(西福寺所在)、同七年二月十四日、同八年と一年ごとになっている。ここで注目されるのは四基の内二基が同じ二月十四日の日付を刻んでいることである。何らかの意味があろうが、推察する手がかりはない。
 本尊は建長五年銘のものが胎蔵界大日三尊で、脇侍は阿弥陀三尊と同じ観音・勢至菩薩である。他は、阿弥陀如来一尊である。
 

Ⅱ-20図 板碑(蔵持字石塔より出土,右:正和2年11月,左:観応元年10月の銘あり)

 また、銘文は風化が激しく部分的にしか読めないが、建長六年銘のものには「類講結願 上六十二」とある。ただし、この「類」と「上」の上にも文字があったようである。また、同七年銘のものには、「敬白大勧進□□」とのみ読むことができる。
 これらの要素からだけでは、その信仰を云々することはできないが、一般の板碑の供養目的である、特定の人間の追善や逆修といった個人的な供養というよりは、「□□類講結願」や「大勧進」といった語句から、何か集団で行なう法会などに際して、その結願供養として造立されたのではないかと思わせるものがあるのである。
 つぎに、武蔵型板碑についてみてみよう。但し、通し番号一二の板碑断片は黒雲母片岩製であるので除外する。また、前述した県外に所在するものも含めると二八基が対象となる。
 このうち、年代を明らかにするものは二〇基である。その年代分布は、一二九〇年代が二基、一三〇〇年代が一基、同一〇年代が六基、同二〇年代が四基、同三〇年代が二基、同四〇年代が一基、同五〇年代が三基、とんで同九〇年代が一基である。
 すなわち、ほぼ一四世紀の前半に集中しており、武蔵型板碑の造立年代全体からいえば部分的にしか現存していないことになる。しかしながら、特定の時期以外のもののみ失われたとも考えにくく、石下町域ではこの時期にのみ板碑造立の風習が行なわれたと考えられよう。
 なお、この一四世紀前半という時期は、武蔵型板碑全体の統計からも、質量ともに最も盛行した時期にあたっており、武蔵型板碑分布圏の辺境にあたる当地域では、その文化の最も華やかな時期にのみ、影響されたといえるのではなかろうか。
 本尊を残すものは、二八基のうち二五基である。内訳は、阿弥陀一尊が一七基、同三尊が一基、一尊か三尊か不明なものが五基、釈迦如来が二基である。
 やはり、他の地域と同様に阿弥陀如来を本尊とするものが九割以上を占めている。その事実から、阿弥陀信仰を本旨とする浄土宗や浄土真宗の信仰が広まっていたとは断定出来ない。むしろ、板碑全体の研究からいうならば、天台・真言の、いわゆる旧仏教系の教説にもとづく浄土教による場合が、大部分を占めていることが指摘されているのである。
 また、銘文をみてみると、ほとんどが年月日を刻むのみで、誰がどのような供養の為に造立したのかを明らかにするものは皆無である。
 わずかに、一番の板碑に「道禅尼」とあるのみである。これも、故人であるのか、在俗の出家者であるのかは判然としないのである。
 ともあれ、石下町では、一三世紀の中頃に地元の伝統にもとづいた常陸型の板碑が、特定の人々により造立された以後、その伝統は続かず、隣接する武蔵型板碑分布圏の勢力の拡大により、遠く武蔵の秩父地方からもたらされる緑泥片岩により、板碑を造立していったのである。
 しかしながら、原材の供給がとどこうりがちになるとともに、板碑の造立も廃れていったと考えられる。その時点において、なぜより入手しやすい石材で板碑を造立しなかったのかが、大きな疑問として残るのである。