常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第二章 親鸞と武士と民衆

第二節 親鸞の門徒とその寺院

さきに記したように、東弘寺の寺伝の中で、親鸞が豊田の地へ道場を建立するように霊告したのは薬師如来であった。真宗寺院の寺伝に阿弥陀如来の霊告ということであれば理解できるのだが、薬師如来の霊告とはどういうことなのであろうか。これには、東弘寺の本堂の左側、すなわち西側にある薬師堂に安置されている薬師如来が深くかかわっていることに気付かされる。この薬師堂は開基堂(〔開基堂板張替寄進者札〕大正十五年十月十日)とも称されて、今日に至っていることからすればなおさらのことである。
 その上に、今回の町史編さんに際しての調査により、この薬師如来像の三か所に造立や修理に関する銘文が書かれていることが判明した。三か所のうち、一番古い銘文は像の胸面内側に墨書されているもので、「元亨元年辛酉五月九日夘尅」とあり、元亨元年(一三二一)五月九日の午前六時すなわち夜明けにこの像が完成した、あるいは開眼供養の法要が行なわれたということであろう。「大勧進法主良俊」とあり、この像の造立の中心人物は良俊という人物であった。また、造立の主旨を書いた銘文の中に、
 
  奉為先方宗〓(幹)幽儀成等□(之)覚証大菩提并慈父良信法師       (傍点筆者)
 
とあり、良俊の祖先には宗幹という人物があり、父は良信という人物であったことが理解できるのである。すなわち、
 
  宗幹………良信―良俊
 
ということになる。薬師如来像は東弘寺に安置されるまでは豊田城内に在ったともいわれている。また、良信・良俊の祖先の「宗幹」の「幹」という字は常陸大掾氏の人びとの名にみられるもので、その流れを組む豊田氏も、
 
                         〔「常陸大掾系図」(『続群書類従』六上)より抜粋〕
 

(図)

と、「幹」という字を用いており、この銘文中の「宗幹」も豊田氏系統の人物とみてもよいのではなかろうか。
 ところで、東弘寺の成立は寺伝では親鸞の時代であり善性の時代である。しかも薬師如来の霊告による成立なので、その時には薬師如来は存在していたはずである。万一、存在しなかったとしてもそれほど薬師如来と関係の深い寺院であるならば、同寺成立とともに造立されたはずである。ところが、親鸞の没年は弘長二年(一二六二)であり、善性の没年は文永五年(一二六八)である。これに対して仏像の成立は元亨元年(一三二一)で、五〇年以上も後の成立である。したがって、東弘寺の寺伝のこの部分は、薬師如来像が同寺に安置された後に作成されたのではないかと考えられる。
 ただ、東弘寺が所蔵する「東弘寺系譜略目」(元禄元年=一六八八=八月成立)という歴代住持を記した掛軸によれば、二代目良信、三代目良智となっている。二代目良信は薬師如来像の銘文中の良俊の「慈父良信」と一致するが、それは薬師如来の銘文に合せた寺伝が作成されたためであろう。しかし、その場合には、なぜ三代目が「良俊」となっていないのかが説明がつかないが、それは「良俊」を「良智」と読み誤ってしまい、それを寺伝に入れてしまったためではなかろうか。いずれにしても、今後の検討が必要であるが、この東弘寺薬師像の銘文によって豊田氏の祖先と考えられる宗幹・良信・良俊という今までに知られていなかった人物の名が新たに判明したのである。
 

Ⅱ-12図 薬師如来像内胸面墨書銘(東弘寺蔵)

 薬師如来像内の胸面には、元亨元年の銘文の外に、その余白に別の銘文が書かれている。それによれば、文明十八年(一四八六)十月に修造が行なわれており、また、背面内側に書かれた銘文によれば天文二十一年(一五五二)八月にも彩色をともなった修造が行なわれている。この時には空清法主という人物が中心となり、石気次郎五郎とともに「市川家風弥藤三郎」すなわち市川氏一族(または家人)の弥藤三郎が一〇〇文ずつ寄進して、修造が行なわれているのである。天文二十一年といえば、豊田氏が豊田城を拠点としてこの地域に勢力を持った時期であるが、この時に、石毛次郎五郎と「市川家風弥藤三郎」が同額の一〇〇文ずつを出し合って修造しているのである。この二人は、仏像の彩色・修造を共同して行なうことによって、協調や結束の誓いを新たにしたに相違ない。ここでも薬師如来の銘文によって石毛次郎五郎と「市川家風弥藤三郎」の二人と空清という僧侶が、戦国時代に実在したことが明らかになった。
 東弘寺の歴代住持の中の九代目に「空浄」という人物がいるが、薬師如来の銘文は「空清法主」とはっきり書かれている。銘文を読み誤って寺伝を作成してしまったのであろうか。
 この薬師如来像には膝の部分の内側に承応二年(一六五三)九月八日の銘文がある。これには「高柳山東弘寺信順院善覚法橋代」とあり、江戸前期に、東弘寺一五代目の善覚の代に江戸の本銀町というところで修造していることが知られる。また、この銘文には「大坊常住物」と記され、高柳山東弘寺の所有であることを明示しているのである。この薬師如来が東弘寺の「常住物」となったのは、この修造の少し前のことであり、それ故にこのような文言を入れたのではなかろうか。
 東弘寺には別の寺伝もある。同寺ははじめ筑波郡の長高野(おさごうや)(現つくば市)というところにあったが蔵持に移り(これが願牛寺であるとする)、いつのころか小蓋地(興正寺の北方の上水道小屋の近く)という所に移転した。しかし、この道場も多賀谷氏が侵攻してきた時に焼失し、のちに現在地の大房に移ってきた。それは天正二年(一五七四)のことであったという。このあたり一帯は、新たに開発された土地であったといわれており、同寺とこの地域の開発には密接な関係があったと伝えられている。薬師如来像は、以前からこの地にあり、あるいは、その地に東弘寺が移ってきたのかも知れない。薬師堂は開基堂とも称され、この地域の人びとの集会所としての役割を果してきた(のちには老人たちの集会所となったが)ことをみると、この薬師如来や薬師堂=開基堂には東弘寺とは別に、独自の信仰を集めてきたことをうかがわせるものがある。
 

Ⅱ-13図 東弘寺薬師堂

 東弘寺に関しては、ほかにも、長高野の地から越中国牧野(富山県高岡市、かつての放生津・奈呉浦の近くで、同浦には興国三年=一三四二=に宗良親王が上陸している)に移り、のち、本石下の北端の明林堂というところに移り、蔵持・新石下・大房と移ってきたとする説や、忠円という僧の活躍などを伝える説もあるが、いずれも確かな史料はなく、信憑性に欠けるものである。