常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第一章 豊田氏の登場と武家社会のはじまり

第二節 頼朝の開幕と御家人豊田氏

平氏滅亡後、頼朝と不幸にも対立する羽目になった義経は、奥州へ下向した。だが、義経の頼りとした秀衡は、文治三年(一一八七)平泉で没した。その子泰衡は、義経を庇護していたが、頼朝の策略にのせられて、同五年義経を討死させた。
 頼朝は奥州藤原氏討伐のための軍勢を下向させたが、豊田兵衛尉義幹も御家人となった一人で、下総の守護千葉常胤に従った。また、常陸の守護には八田知家が任じられ、その支配下に常陸平氏一族の多気太郎義幹、小栗重成、伊佐為重・資綱、鹿嶋六郎頼幹、真壁六郎長幹などが入った。また金砂山合戦の佐竹秀義(隆義との説もある)も、この討伐軍に加わった。泰衡は敗走し、奥州は頼朝の統轄下に入った。彼は東国武士の多くに恩賞として新恩地を与えたが、平氏滅亡後に御家人となった常陸平氏一族や金砂山合戦で頼朝に反抗した佐竹秀義には恩賞はなかった。豊田義幹も当然ながら新恩地を給与されなかったとみられる。
 その後建久元年(一一九〇)、頼朝ははじめて上洛したが、その随兵の三三番に豊田義幹、鹿島政幹、小栗重広らがみえる(『吾妻鏡』)。また同六年、頼朝は東大寺供養に参列するために上洛したが、豊田義幹は多くの常陸・北下総の御家人たちとともに、随兵としてその名がみえる(同前)。ここに豊田氏は、頼朝の御家人として活躍していたことが明らかとなる。
 

Ⅰ-5図 吾妻鏡(建保元年5月6日の条,国立公文書館蔵)