常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

中世の石下


聖徳太子画像(東弘寺蔵)

 中世の石下地域は豊田氏の興亡に大きな影響を受けることになる。同氏は一二世紀初頭に平貞盛(貞盛の弟繁盛とも)の曾孫多気重幹(繁幹)の弟三子政幹が下総国豊田郡に支配力を強めたことにはじまる。政幹は「石毛荒四郎」と称したというから豊田郡内の鬼怒川、その東の小貝川の氾濫原を開拓し、石下地域を中心に支配力を強めていったものと思われる。一二世紀後半、同氏はその所領を蓮華王院に寄進し、松岡荘=豊田荘の立荘を認められたという。同荘の下司となって在地支配権を確保したに相違ない。しかし、承安四年(一一七四)三月には隣接の八条院領下妻荘の下司職であった下妻広幹の乱行を受け(『吉記』)、文暦元年(一二三四)にも豊田荘内の田下、久安両郷が結城朝光の所領となったことから起った相論にまき込まれるなど(『吾妻鏡』)、豊田氏の在地支配も困難を要した。
 頼朝の平氏打倒の挙兵に対して、豊田氏は下妻・小栗・東条・鹿島氏等の常陸平氏一族とともに反頼朝の軍勢に加わったが、富士川の合戦で平氏勢が敗走してからは主だった動きをみせず、頼朝が鎌倉幕府を開いてから後は御家人として活動している(『吾妻鏡』)。和田合戦では豊田平太幹重が敗死した和田義盛方についてしまうという危機もあったが、それ以降も御家人として存続することができた。
 南北朝期の豊田氏の動向は不明である。おそらく静観していたのであろう。室町期の豊田氏の動向もはっきりしないが、石下地域を中心に勢力を維持していたことは確かである。一方、石下地域周辺は千代川村本宗道の宗任神社が所蔵するいわゆる「御水帳」(「年貢等諸役納入覚」と呼ぶべきか)や「喜連川料所記」の記載によれば、古河公方の支配が大局的に及んでいたのではないかとも考えられる。古河公方の有力家臣簗田(やなだ)氏が外護する五霞村山王山東昌寺の末寺である興正寺が本石下にあることと無関係ではなかろう。
 戦国期の豊田氏は小貝川西岸の微高地に築かれた豊田城と鬼怒川の東岸の石毛城およびその対岸の向石毛城を中心に、小貝川東側の金村・長峰、鬼怒川西側の古間木などの各支城を拠点として、支配領域を維持し、小田氏と連繫して、下妻の多賀谷氏の南進を防いだ。しかし、豊田治親は幾度かの戦闘の末、天正六年(一説に同三年)の五月三日(「竜心寺過去帳」)、多賀谷氏に内通した飯見大膳正に暗殺され、豊田城も落城した。
 豊田氏滅亡後の石下地域は多賀谷氏によって支配されたが、その多賀谷氏も天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の全国統一の過程で、重経の養嗣子宣家(佐竹義重の子)は佐竹氏に、実子の三経は結城氏に仕えさせられた。そして、慶長六年(一六〇一)に結城氏が越前に、慶長七年には佐竹氏が出羽国久保田(のちの秋田)に国替えになると、三経・宣家はそれぞれに同行した。
 豊田氏が滅亡し、多賀谷氏が去ったことにより帰農した者もいた。やがて、彼らの中には有力農民として、近世の村落を主導していった者が少なくなかった。
 中世の宗教・文化等についてみると、まず親鸞とその門弟たちは鎌倉初期以降、飯沼を水上交通路として、また、その周辺を生活の場としていた人びとに布教していったのではないかと考えられる。親鸞に関する伝承を持つ願牛寺(現廃寺)も東弘寺(現在は大房)ももとは飯沼の近くの蔵持にあった。
 石下地域は常陸型板碑(板塔婆)の分布圏であるとともに武蔵型板碑分布圏の最東端でもある。建長五年(一二五三)から同七年にかけては、四基の常陸型板碑が造立されており、武蔵型板碑は一三世紀末から一四世紀前半に集中して造立されている。また、元享元年(一三二一)にはもと豊田城内にあったという薬師如来の木像(大房東弘寺蔵)が造立されており、銘文から宗幹(豊田氏か)・良信・良俊の名が知られる。同像は文明十八年(一四八六)と天文二十一年(一五五二)に修造されており、天文二十一年の修造には豊田氏の一族と思われる「石気ノ次郎五郎」とやはり豊田氏の家臣と考えられる市川氏の一族(または家人)の「弥藤三郎」が一〇〇文ずつ出し合っている。なお、東弘寺にはこの薬師像とともに室町期作の聖徳太子画像もあり、美術史上注目される。
 戦国期には曹洞禅の展開がみられる。本石下の興正寺が豊田氏支配領域内に末寺を建立していったのに対して、多賀谷氏の豊田進出によりその外護を受けて再興された本豊田の竜心寺は同氏の力を背景に発展を遂げており、戦国期の領主と宗教の関係を如実に示している。また、豊田・石下・向石下・蔵持・古間木には土塁や堀、関連の小字名が残されており、城館の様子を伝えている。