常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第一編 原始・古代

第六章 平将門の乱

第二節 平将門の乱

近年、平将門の実像に迫まる程の大胆な構想が生まれている。しかもそれは新たな文献史料の出現ということではなく、将門の生活の場であったこの鬼怒流域での遺跡の発掘(昭和五十三~五十五年)に端を発している。いわゆる八千代町尾崎前山地区所在の製鉄遺跡である(『八千代町史』)。
 紙幅の都合上ここでは詳細な解説はできないが、ともかく九世紀の当地方での製鉄の事実を証明する遺構として注目されている。しかもこの遺構からは製鉄炉、鍛冶工房、工人住居等が確認され、組織的な製鉄事業が行なわれていた公算が強いという。砂鉄の採取、運搬、木炭の作成、炉の構築という一連の作業は当地方の人々(多くは農民)の労働力によって成り立つものであり、それらの工程を指揮した有力者の存在も容易に想定されるという。この有力者こそ将門の如き地方豪族(軍事貴族)か国司もしくは伝統的在地有勢者(=郡司層)などが恰好であるが、今それは不明である。九世紀にはいまだ将門一族はこの地に根付いていない。しかし、この製鉄事業が当時のこの地方での重要な鉄製品供給を演じていたならば、一〇世紀に至ってこの地に勢力を築きあげた平良持や、特に子息将門が従前からの製鉄事業と無縁であるとも考えにくい。尾崎前山地区の製鉄炉遺構は九世紀であっても、あるいは一〇世紀の未発掘の他の炉跡の存在も大いに可能性がある。このように考えれば『将門記』の次の記事もすこぶる理解度が高まるのである。つまり、承平七年(九三七)十二月、平良兼に買収された将門の「駈使」丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)(豊田郡岡崎村=現八千代町尾崎か)は、将門の石井の営所へ改めて偵察に出かける。もちろん結果を良兼に報ずるためである。
 

Ⅵ-4図 製鉄遺跡遠景(上)と製鉄跡
(八千代町尾崎前山,八千代町史編さん室提供)

 
  子春丸と彼の使者(良兼方の田夫)は、各々炭を荷ひて将門の石井の営所に到る。一両日宿衛の間に、使者
  を麾(まね)き率ゐて、其の兵具の置所、将門が夜の遁所、及び東西の馬打、南北の出入、悉く見知らしむ。
 
 将門にとっては極めて不利な光景であるが、ここで特に注意すべき点は、子春丸等によって営所内に「炭」が搬入されていることである。この炭の用途を単に暖熱材料と見るのではなく、製鉄炉で使用する木炭と解すれば、この記事は俄然生き生きとするのである。暖熱用の炭ぐらいは営所内でも容易に準備できる筈である。改めて営所外より搬入されるところにこの炭の特異さがあり、子春丸が負っていた「荷夫の苦役」とは、単なる雑役運搬の苦役ではなかったといえよう。製鉄用の木炭の製造搬入の苦役であり、あるいは砂鉄採取の苦役も伴っていたかも知れない。将門からすれば子春丸は「駈使」でも、自らは岡崎村に居住し、「常陸石田庄」(明野町東石田一帯)にも水田を持つ独立した農民なのである。かかる第二、第三の子春丸を動員して行なわれた、製鉄事業の推進者将門の有力者ぶりが想像されるであろう。
 果してこの想像はもう一つの報告により一層現実味を増すのである(『八千代町史』)。その報告とは八千代町尾崎地内で確認される土塁、通称「たてだし」に関するものである。前述製鉄炉跡のある前山から西北方の大間木地区入谷にかけて約二キロメートル(村落面よりの高さ一・六~二メートル、上面幅二~七メートル)続いている。さらにこの土塁は西方にも伸び、崎房(石下町)地区と尾崎地区の間に入りくんでいる谷津地形の最奥「辰堀」(たつっぽり)の北端部に近接している。この辰堀の西北及び西側は芦ケ谷地区(八千代町)で、その西方には尾崎地区の東側の入沼同様、巨大な入江芦ケ谷がある。すなわち、入沼と芦ケ谷の両入江に囲まれた現在の崎房、尾崎、大間木、芦ケ谷の地形は全体として飯沼に突き出した半島状のそれである。このうち、尾崎地内前山から大間木地内入谷に伸びる土塁と、芦ケ谷地内御料に入りくんだ芦ケ谷の谷津頭(辰堀の最奥部西側)を結ぶラインで、半島を南北に分断するとすれば南半の広さは三五〇ヘクタールに相当するという。「たてだし」と呼ばれる土塁の残存が完全ではないので、その全貌を知ることはできないが、想定されるかかる囲い地の東端に、製鉄炉跡が確認されたことと関連づけて、いきおいこの囲い地を「牧場」と見る視点が浮上するのである。
 石下町、八千代町にかかるこの一帯にかつて「牧場」が存在した証差は平安時代の「延喜式」による。「延喜式」所載の下総国所在の馬・牛牧は、高津馬牧(千葉県八千代市高津か)、大結馬牧、木嶋馬牧、長洲馬牧(岩井市長須か)、浮嶋牛牧の五牧である。比定地不明の三牧のうち大結馬牧に着目し、これを八千代町大間木に比定したのは赤城宗徳氏である(角川選書『平将門』)。この説を再評価した福田豊彦氏は、「たてだし」遺構の確認と製鉄炉跡の発掘成果から、改めて「牧場」の所在を位置付けたのである(岩波新書『平将門の乱』『八千代町史』)。
 『将門記』にいう「下総国豊田郡栗栖院常羽御厩(くるすいんいくわのみうまや)」は承平七年(九三七)八月、将門の伯父平良兼の襲撃にあった。現在八千代町栗山(くりやま)には観音堂があり、先年の調査で堂内仏が一〇世紀初頭作製の木芯乾漆像であることがわかった。そしてこの観音堂は「栗栖院弁寿山仏性寺」なる寺院付属の堂舎というから、かつてはこの栗山の地内(小字古堂辺りか)に寺構を整えて所在したと思われる。『将門記』とこの栗山の古寺の関係はさらに興味深い歴史を提供しそうである。
 馬具等を製作した製鉄炉、馬を放し飼いにした牧(大結牧→兵部省付属)、牧を管理するための官厩(御厩)、官厩の官人御厩別当多治経明(『将門記』所出→平将門陣頭)という関係が容易に想定される条件が得られた。加えて大間木(=大牧?)、御料(ごりょう)、馬場(ばば)(石下町)、古間木(ふるまき)(=古牧?、石下町)などの地名からもこの一帯にかつていわゆる「馬牧」の所在した可能性は高い。
 以上の二報告から求められる平将門の実像は、製鉄事業を推進できうる程の在地有力者であると同時に、その推進力自体は、兵部省付属「大結馬牧」を経営管理する牧司としての、公権請負人という立場から生ずるものであったということになる。国司、鎮守府将軍といった官への任官を通じて、公権を請け負った一族の他の人物とは異なり、平将門の実像は官営牧場の経営主体ということになろうか。このような人物が系図にその履歴を注記されないのは、我が国諸系図の特色であり、将門も例外ではなかった。ましてや、権力に反逆を画した将門ともなれば、以後の所伝で反逆前の履歴が抹殺されたとしても、不思議ではなかろう。
 最新の将門像を紹介したことを念頭に置きつつ、次項では乱の経緯をながめてみたい。