常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第一編 原始・古代

第六章 平将門の乱

第二節 平将門の乱

平将門の出自及び生涯を知る史料はそのどれもが確証を得るものではなく、あるいはだからこそ様々な憶測と組み換えが可能でもある。伝記、物語、伝承、信仰、演劇等に至ってはますます将門像は多様化し親近感を増幅するばかりであるが、これが将門なる人物の不思議な側面でもある。『将門略記』の他に将門の出自と生涯を記す史料をみるとまず系図がある。
 系図という史料も決して信頼を置くに足るものではないが、そのなかでも南北朝期に成立したという『尊卑分脈』(洞院公定等撰、『国史大系』所収)は我国最大の諸氏系図集成として利用度が高く、一定度の信頼性を有している。この中の「桓武平氏系図」に将門は平良将(従四位下、鎮守府将軍)の子としてみえ、<滝口小二郎、号相馬、号外都鬼王、貞盛誅之>なる注記がある。さらに「相馬系図」「桓武平氏系図」「千葉系図」(いずれも『続群書類従』所収)などには<自号平親(新)王>とあって任官の履歴を示す注記はない。滝口とはいわゆる「滝口の武士」の意であり、禁中警衛を任務とした。将門にもこの経歴があったという程度の所伝である。また、彼が相馬小次(二)郎と号したとの所伝は恐らく叔父良文流の相馬氏の中で生まれた伝承であり、諸記録をはじめとして「相馬系図」の成立(近世初頭)過程でも、全く自然に加えられたものであろう。
 

Ⅵ-2図 将門記(名古屋市真福寺蔵)

 次に諸記録ではどうであろうか。乱を告げる記録は多いが、出自、履歴を語るものは限られる。列記すると次のとおりである。
 
  (1) 『三宝絵詞』(永観二年<九八四>成立、源為憲著)
     「又下総国にありし平将門は、これ東国のあしき人也といへども、先世に功徳をつくりしむくひに
     て天王となれり(中巻)
  (2) 『今昔物語集』(一一~一二世紀頃成立、撰者不詳)
     「今ハ昔、朱雀院ノ御時ニ、東国ニ平将門ト云フ兵有ケリ、此レハ柏原ノ天皇ノ御孫ニ、高望王ト
     申ケル人ノ子ニ、鎮守府ノ将軍良持ト云ケル人ノ子也、将門常陸下総ノ国ニ住シテ、弓箭ヲ以テ身
     ノ荘(カザリ)トシテ、多ノ猛キ兵ヲ集テ伴トシテ、合戦ヲ以テ業トス(巻二五、平将門発謀叛
     誅語第一)」
  (3) 『扶桑略記』(一一世紀末成立、僧皇円編)
     「天慶二年十一月廿一日、陸奥鎮守府前将軍従五位下故平良持之男、将門謀叛乱逆」
  (4) 『源平闘諍録』(南北朝期成立か、著者不明)
     「彼高望有十二人子、嫡男国香常陸大掾為将門被誅、次男良望鎮守府将軍是将門父也(巻一上、一、
     自桓武天皇平家之一胤事)」
  (5) 『帝王編年記』(一四世紀初頭頃成立か、僧永祐編か)
     「同(天慶)二年己亥十一月廿一日、平将門[一品式部卿葛原親王五代鎮守府将軍良持男]謀叛」
  (6) 『延慶本平家物語』(延慶三年<一三一〇>成立、僧栄厳書写)
     「朱雀院御時承平年中ニ平将門、下総国相馬郡ニ住シテ八ケ国ヲ押領シ、自ラ平親王ト称シテ、都
     ヘ打上ケリ、帝位ヲ傾奉ラムトスル謀反ノ聞有ケレハ、花洛ノ騒ナノメナラス(巻五、昔シ将門ヲ
     被追討事)」
  (7) 『吾妻鏡』(一三~一四世紀成立、鎌倉幕府編)
     「(治承四年九月)十九日戊辰、(中略)陸奥鎮守府前将軍従五位下平朝臣良将男将門虜領東国
     (治承四年九月)」
 

Ⅵ-3図 吾妻鏡(治承4年9月19日条,内閣文庫蔵)

  (8) 『神皇正統記』(興国四年<一三四三>成立、北畠親房著)
     「第六十一代、朱雀天皇(中略)此御時、平将門ト云物アリ、上総介高望ガ孫也<高望ハ葛原ノ親王
     孫、平姓ヲ給ル、桓武四代ノ御苗裔ナリトゾ>」
  (9) 『将門純友東西軍記』(室町期成立、作者不詳)
     「此時、下総国住人相馬小次郎将門モ在京シタリ、此将門ハ桓武天皇三代高見ノ王一男、高望王ニ
     六人ノ子アリ、一男ハ平良望鎮守府将軍号国香是ハ平将軍貞盛カ父ナリ、太政大臣清盛之先祖也、
     次男ハ平良将鎮守府将軍是将門カ父ナリ」
  (10) 『元亨釈書』(元亨二年<一三二二>成立、虎関師錬編)
     「天慶三年初、前将軍平良持之子反東州、已数年矣、寇虐甚熾」
 
 以上、近世以前の成立といえる記録を掲げたが、平良持(将)の子将門が謀反をおこしたとの所伝の域を出るものは一書もない。やはり、生年、出生地などは不明である。
 最後に『将門記』所載の将門書状(太政大臣藤原忠平宛)によってその生涯の一端に触れておく。書状は天慶二年(九三九)十二月十五日付で発信され、その文言中に「抑々将門少年の日、名簿(みょうぶ)を太政大殿に奉じて数十年、今に至れり」とある(この書状の実否については定説を得ない)。下総在住の若き将門が上洛して藤原忠平の家司(けいし)として勤務したというのである。忠平の如き摂関家に多くの地方豪族の子弟が家司として奉仕することは奇異ではなく、事実従兄の貞盛も主人名は不明だが上洛奉仕の身で、その推輓により官途を遂げている(馬寮官人と思われる)。将門の滝口出仕も然りであろう。他に貞盛の弟繁盛が忠平の子右大臣師輔へ(寛和三年<九八七>正月二十四日太政官符)、その子維幹も右大臣藤原実資へ奉仕している(『小右記』長保元年<九九九>十二月九日条)。維幹がこの結果五位の位を手に入れ「水守大夫」「多気大夫」と呼ばれた話は有名である(『古本説話集』『宇治拾遺物語』『小右記』)。
 では、将門の場合はどうであったろうか。残念ながら今日利用し得る史料からは忠平家への奉仕の成果は確認されない。諸系図から滝口の武士への推輓程度が推測されるだけで、夢空しく帰省したとの理解に終始している。諸系図にも任官の注記がないのはそのためだといわれている。まさに無冠ないしは無官の大夫であるという。事実はどうであろうか。『将門記』中の天慶二年(九三九)十二月十九日、将門が八幡大菩薩の使となった一昌伎より「新皇」の位を授けられる場面がある。この時の将門は「蔭子(おんし)」と呼ばれている。蔭子とは蔭位をうける資格を有する親王や五位以上の者の子の意である。そして蔭位とは父及び祖父の位階に応じて二一歳になると自動的に位階が与えられる特権的位階をいう。従って将門の場合、父良持(将)が諸系図の示すように従四位下なら従七位上、従五位下なら従八位下が叙位されるという規定である。二一歳まで何事もなく、つまり無位にして平穏に生活をしてきた場合である。この間、功を積み、国家への奉仕を行なっていればそれ以前の叙位もあり得るわけである。国家的反乱を企図した将門に結果として官位がないのは当然であり、諸系図が全て謀反人将門のみを表現しているため、死去前数年の将門像に焦点があてられているわけである。
 将門の出自を思う時、乱を企図する以前の将門とは一体いかなる社会的存在であったのか、奇しくも『将門記』が吐露した、蔭子平将門の実像を探究しなくては将門も浮かばれまい。