常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第一編 原始・古代

第五章 奈良・平安時代

第三節 石下町域の遺跡

奈良・平安時代の遺跡には、集落跡、国衙や郡家などの官衙遺跡、寺院跡、鍛冶などの工房遺跡、須恵器や瓦を焼成する窯業遺跡、水田の地割を示す条里遺跡などがある。石下町域における奈良・平安時代の遺跡は、土師器や須恵器などの破片が散布していることによって、これまでに七二か所ほどが確認されている。この数は、古墳時代の集落跡とみられる遺跡が二七か所であることと比較すると、奈良時代以降の遺跡が爆発的に増加していることがわかる。これらの遺跡のうち発掘調査が実施されたものは一か所にすぎないが、大部分は集落跡とみられるものである。そうしたなかで、瓦を出土する遺跡が二か所、鞴の羽口を出土する遺跡が一か所みられ、寺院跡や工房遺跡が存在する可能性も考えられる。七二か所の遺跡は、一時期に営まれたものではなく、古墳時代から引き続いて営まれたものであるが、大部分は八世紀から一〇世紀にかけての約三〇〇年の間に形成されたものである。
 これらの遺跡の分布状況をみると、全体的には鬼怒川右岸の台地上に密集し、鬼怒川、小貝川の低地にはほとんどみられないのが現状である。鬼怒川右岸の台地は、結城台地の南端部にあたり、西側を飯沼川(旧飯沼)に限られた標高二〇~二五メートル程の台地である。この台地は、将門川、中沼排水路、入沼排水路などの小河川の開析によって、四ないしは五つの台地に分けられている。また、開析谷には樹枝状の谷系が発達しており、遺跡はこれらの谷(谷津田)に面した台地縁辺部に多くみられ、台地の中央部にはほとんどみられず、空白部となっている。このことは、奈良時代以降、鉄製農耕具の普及などによって谷津田の開発が進行したことと無関係ではないと思われる。また、町史編さんにともなって実施した遺跡の分布調査は完全なものではなく、今後、さらに遺跡数の増加が予測されるが、現状では鬼怒川寄りの国生、杉山、篠山、蔵持、古間木の各地区に集中し、町の西部にあたる開析谷の奥には、概して遺跡は稀薄である。これは谷奥が近世まで沼地であったように、排水不良の低湿地であったために、生産基盤である水田の開発が因難であったことに起因するものと思われる。旧飯沼に面した崎房や鴻野山の台地に遺跡が少ないことも、飯沼が近世まで沼地であったことと無関係ではないと思われる。
 

Ⅴ-6図 律令時代の遺跡分布図

Ⅴ-2表 律令時代の遺跡一覧表
県台帳
番号
市町村
番号
名  称所 在 地県台帳
番号
市町村
番号
名  称所 在 地
24007梁戸貝塚崎房南62浦山遺跡蔵持浦山
24018塚前貝塚鴻野山塚之前63西山遺跡蔵持西山
24029郷ノ上貝塚鴻野山郷ノ上64前畑遺跡蔵持前畑
240310鴻野山貝塚鴻野山大坂65荒屋敷遺跡蔵持荒屋敷
240511宮内遺跡古間木宮内66門畑遺跡蔵持門畑
300912北山遺跡国生北山67地蔵前遺跡蔵持地蔵前
21古間木遺跡古間木68天歩遺跡篠山天歩
25堂の脇遺跡崎房宿堂の脇69浦山A遺跡篠山浦山
26薬師脇遺跡崎野山70浦山B遺跡篠山浦山
27剣之峯遺跡鴻野山剣之峯71星敷下遺跡篠山屋敷下
28五輪前遺跡鴻野山五輪前72新舟戸遺跡篠山新舟戸
29保待山遺跡岡田保待山73新堀遺跡篠山新堀
35本屋敷遺跡国生本屋敷74堂前遺跡篠山堂前
37坊山A遺跡国生坊山75川戸遺跡篠山川戸
38坊山B遺跡杉山坊山77峯道遺跡蔵持峯道・篠山神子女
39富田遺跡杉山富田78向山遺跡蔵持向山
40弁才天遺跡杉山弁才天80大和田A遺跡古間木大和田
41入田遺跡杉山入田81大和田B遺跡古間木大和田
42日枝前遺跡杉山日枝前82入 遺 跡古間木入
43杉山前A遺跡杉山杉山前86内山B遺跡古間木内山
44杉山前B遺跡杉山杉山前88坊山遺跡古間木坊山
45宿 遺 跡杉山宿89山中遺跡古間木山中
46登戸前遺跡杉山登戸前91山中前遺跡古間木山中前
47宿前遺跡杉山宿前92坊山前遺跡古間木坊山前
49狐山遺跡向石下狐山94淵内遺跡古間木淵内
50新畑遺跡向石下新畑96松山向遺跡古間木松山向
51美濃輪山遺跡向石下美濃輪山99四ツ木遺跡古間木四ッ木
52袋内A遺跡向石下袋内100東浦遺跡向石下東浦
53袋内B遺跡向石下袋内101屋敷遺跡向石下屋敷
54新六遺跡蔵持新六102堂ノ前遺跡向石下堂ノ前
55原山遺跡蔵持原山103一盃館遺跡向石下一盃館
56芝野遺跡蔵持芝野104西館遺跡向石下西館
57大高山A遺跡蔵持大高山105御城前遺跡向石下御城前
58大高山B遺跡蔵持大高山106下河原遺跡若宮戸下河原
59石塔遺跡蔵持石塔107観音東遺跡豊田観音東
60塩田窪遺跡蔵持塩田窪108曲田遺跡曲 田
61西原遺跡蔵持西原


 
 一方、鬼怒川は毛野河、絹川、衣川とも呼ばれ、古くから洪水をもたらす暴れ川でもあった。『続日本紀』神護景雲二年(七六八)八月庚申条によると、下総国結城郡内を流れる毛野川(鬼怒川)の流域には、二〇〇〇余の口分田があるが、毎年の洪水によって荒廃したので、結城郡小塩郷小嶋村から常陸国新治郡川曲郷受津村に達する一〇〇〇余丈を掘って、河川を改修することを命じている。この記事によれば、条里は河川流域の沖積地に開かれることが多かったようである。古代における石下付近の鬼怒川の流路は、明確ではないものの現在の小貝川の流路に近いものであったものと考えられている。この鬼怒・小貝川の低地には、旧鬼怒川によって形成された自然堤防がみられ、堤防上に若干の遺跡が存在している。自然堤防上には現在の集落が存在し、また、氾濫による埋没などから遺跡の確認が困難であるが、若宮戸、豊田地内から土師器や須恵器の完形品が採取され、九世紀代には集落が営まれていたものとみられる。自然堤防上に集落を営んだ人々は、旧鬼怒川の氾濫と闘いながら後背湿地に水田を開いて生産の基盤としていたものと考えられる。
 

Ⅴ-7図 古代鬼怒川水脈想定図(吉田東伍『利根治水論考』より)


Ⅴ-8図 国生本屋敷遺跡全景

 町域のおもな遺跡
 次に、各地区毎にその様相をみていきたい。
 先ず国生地区の鬼怒川に面した幅三〇〇メートル程の台地上には、古墳時代から引き続き台地全面に集落が営まれている。そのうち国生本屋敷遺跡は、昭和六十一年に発掘調査を実施したので、その状況を述べていきたい。当遺跡の範囲は、散布している土師器や須恵器などの破片から、約二〇ヘクタールほどとみられる広大なもので、縄文時代、弥生時代の遺物も出土している。中心となる時代は古墳時代から奈良・平安時代とみられ、その時期の住居跡や土坑などが多数確認された。
 

Ⅴ-9図 国生本屋敷遺跡1号住居跡

 確認した遺構は、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、井戸跡、土坑、溝などで、出土した遺物には、縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器、灰釉陶器などの土器類、石鏃、砥石などの石器類、鏃、刀子などの鉄器類がある。住居跡は二八軒確認し、そのうち一軒について内部の調査を実施した。調査を実施した住居跡は古墳時代後期のもので、東西四・九メートル、南北四・二メートルの隅丸長方形で、ローム層を六〇センチほど掘り下げて構築されている。床面積は一三・八平方メートル程で、床面は一部貼り床で踏み固められている。柱穴は、各コーナー付近に四か所みられる。北壁の中央部には、壁外へ三〇センチメートル程掘り込み、袖部を川砂等をもってカマドが作られている。カマドの反対側の南壁中央下には小穴が二か所みられ、出入口の施設があったものと想定されている。出土した遺物は少なく、カマド内および覆土中から若干の土師器片がみられる程度である。土師器は杯、甕で、いずれも日常的に使用されたものである。
 この様な住居跡は、確認されただけで二八軒程みられ、台地全体では数百軒程存在することが予測され、大規模な集落の存在が考えられる。土坑は、その性格が明らかでないものが多いが、一四四基確認され、そのなかには掘立柱建物の一部を構成するとみられる柱穴がみられる。調査期間等の関係でその全容を明らかにすることはできなかったが、柱穴内からの出土土器によって、掘立柱建物の構築時期は九世紀代とみられる。井戸跡は、径六〇センチメートルの円形を呈し、深さは明らかでないが壁面には白色粘土が貼り付けられた状態でみられた。井戸の使用時期については明確にできなかったが、九世紀後半頃のものとみられる土師器杯片が出土している。溝は台地東端寄りから確認され、おおよそ南北方向(N-20-W)に五〇メートル、それに直交する方向に三〇メートルのL字形に走っている。溝の上幅は三・四メートル、深さ一・五メートルで、断面形は逆台形の箱薬研状を呈している。溝の時期を決定する遺物の出土はないが、溝内堆積土の風化火山灰土層の分析によれば、一〇世紀初頭と推定されている。溝の全容は明らかでないが、形状から方形あるいは長方形に巡っていることが予測できる。そのほか、注目すべき遺物として、「介」とみられるものなど数点の墨書土器と、判読不能の朱書土器がある。以上のような遺構や出土遺物から、本遺跡の存続期間は、古墳時代以前を別とすれば八世紀前葉から、九世紀後半頃までと考えられる。
 

Ⅴ-10図 国生本屋敷遺跡出土土器

 この本屋敷遺跡の所在する国生台地付近には、表橋、大道、丸の内、太子、番場、本屋敷、古明神などの地名があり、一説に昌泰年間(八九七~九〇一)、平良将が下総開拓の府として国亭を置いたことにより国生の名が起こったといわれている。また、国生の地は岡田郡家(郡衙)の所在地ともいわれている。本屋敷遺跡の発掘調査は、ごく限られた範囲の調査であったことから、これらの当否についてにわかに判断するだけの資料を得ることができなかったが、下総国府(国庁)は現在の市川市国府台付近に求められることから、この地に国府があったという説は否定されよう。また、集落としての存続期間は、おおむね八世紀から九世紀後半頃までであり、国庁として機能していたといわれる九世紀末から一〇世紀前半にかけての遺構、遺物は皆無に近い状態である。
 この遺跡の性格を示唆する遺構は、方形に巡ると予想される大溝の存在、遺物には墨書や朱書の土器がある。このような大溝は、一般集落にあってはみられず、国衙や郡家などの官衙遺跡、寺院跡などにおいて内外を区画する溝としてしばしばみられる。また、墨書土器にみられる「介」は、四等官からなる国司のうち守に次ぐ次官の官称で、官衙との関わりが考えられる。朱書の類例は多くないが、官衙関係遺跡からの出土が比較的多いようである。このようなことからして、本遺跡は岡田郡衙の比定地として有力な遺跡の一つにあげることができよう。この国生及びその西側にあたる岡田地区は、岡田郡の中心地と推定されている。
 

Ⅴ-11図 岡田・保待山遺跡全景

 将門川をへだてた西側の国生西部と岡田地区の台地は、分布調査が十分でなかったこともあろうが概して遺跡は少なく、伊勢宮、保待山遺跡などが台地縁辺部に散見されるだけである。このうち保待山遺跡は、四ヘクタール程にわたって八世紀末から九世紀にかけての土師器、須恵器が散布し、大規模な集落の存在が考えられる。
 国生地区の南側にあたる杉山の台地は、大部分が宅地化し、また、工場の進出等によって遺跡の確認を困難にしているが、坊山A・B遺跡、弁才天遺跡、杉山前遺跡、登戸前遺跡、宿前遺跡などが台地縁辺部にみられる。台地東側を流れる将門川の低湿地や西側の谷津を開発し、水田を開いて生活の基盤としていたものと思われる。
 杉山地区の南東にある向石下の台地は、西側に将門川、東側に鬼怒川が南流し、現在は独立丘となっている。この台地縁辺部にも、東浦遺跡、堂ノ前遺跡、一盃館遺跡など六か所の遺跡が確認されている。遺跡のほとんどが宅地化しているが、九世紀から中世にかけての土師器や須恵器が出土し、大集落のあったことが知られる。
 将門川を挟んで南側にあり、岡田台地の南側に連なる篠山・蔵持の台地縁辺には、美濃輪山遺跡、浦山A・B遺跡、塩田窪遺跡、原山遺跡、石塔遺跡など三二遺跡が確認され、町内で最も遺跡が密集する台地である。この台地の周囲には小支谷が形成され、アメーバ状を呈し、これらの小支谷に面した台地縁辺部に八世紀から九世紀にかけての集落が営まれていたようである。集落の大部分は自然村落で、農耕集落であったものとみられるが、塩田窪遺跡からは土師器・須恵器とともに古代の布目瓦片や窯壁の一部が出土することから、瓦製作遺跡であった可能性が考えられる。また、石塔遺跡からは、九世紀代の土師器や須恵器とともに鞴の羽口が出土し、鍛冶関係の工房跡が存在したことが知られる。
 この篠山・蔵持台地東側の沖積地にも、十王遺跡、新舟戸遺跡があり、九世紀後半の土師器や須恵器が出土している。そのなかに、「久上」と墨書された須恵器杯、「大生」、「〓」と墨書された土師器杯がみられる(Ⅴ-12図)。これらの墨書が何を意味するものかは明らかでないが、鬼怒川の自然堤防上にも集落が営まれ、その集落には文字を読み書きできる人がいたことを物語っている。
 

Ⅴ-12図 町域出土の土器(1保待山遺跡 2原山遺跡 3~5新舟戸遺跡)

 古間木の台地は、馬場、鴻野山地区から南東方向に伸びる台地先端部にあたり、台地縁辺に宮内遺跡、内山B遺跡、坊山遺跡、淵内遺跡など一三遺跡が確認されている。これらの遺跡は、水田耕作に適した低湿地(小支谷)に面した舌状の台地や谷頭に多くみられ、台地中央部に営まれた集落は少ないようである。また、台地の西半部は、現在の集落が存在していることによって遺跡の確認を困難にしていることもあろうが概して遺跡は少なく、鬼怒川に面した台地東側の部分に多くみられる。そのなかで、宮内遺跡、古間木遺跡、山中遺跡、四ッ木遺跡などは、古墳時代の集落と重複し、早くから開発が行なわれ、長期間にわたって集落が営まれていたことが知られる。
 古間木台地の北西に連なる幅一キロメートル程の鴻野山、馬場の台地は、比較的山林が多いことなどによって分布調査が十分ではないが、飯沼川(旧飯沼)に面した鴻野山地区に塚前遺跡、郷ノ上遺跡、薬師脇遺跡、剣之峯遺跡、五輪前遺跡が近接してみられるだけである。遺跡が所在する台地は、南から北へ入り込む侵蝕谷と西から東へ入り込む侵蝕谷によって三角形状を呈しており、この三角形状の全面にわたって遺跡が存在するものとみられる。これらの遺跡は、出土する土師器や須恵器から、八世紀から九世紀にかけて営まれたものとみられ、塚前遺跡からは凸面が縄目叩きの平瓦片、郷ノ上遺跡からは唐草文の軒平瓦などが出土している(Ⅴ-14図)。かつては郷ノ上から五輪にかけては布目瓦が多量に散布していたといわれ、古代に創建された寺院が存在したものとみられるが、堂塔の基壇や寺域については明らかでない。これについては今後考古学的な調査を待たねばならないが、この寺院は郡の寺であった可能性があり、また付近に郡家の存在も考えられる。
 

Ⅴ-13図 町域出土の土器(1~3五輪前遺跡 4~7堂の脇遺跡 8,9曲田遺跡)


Ⅴ-14図 郷ノ上遺跡出土古瓦


Ⅴ-15図 堂の脇遺跡全景


Ⅴ-16図 豊田・観音東遺跡全景

 馬場、鴻野山台地の西側に位置する崎房台地も、遺跡の分布調査が十分でなく、台地縁辺部に梁戸遺跡、堂の脇遺跡が確認されただけである。両遺跡ともに小支谷に面した台地先端部にあり、堂の脇遺跡からは九世紀後半の土師器や須恵器とともに窯壁片が出土している。
 その他、古代の遺跡は存在しないと考えられていた、小貝川右岸の沖積地から二つの遺跡が確認された。一つは、豊田地区の観音東遺跡、他は曲田地区の曲田遺跡で、いずれも九世紀末頃の土器が出土している。これは、九世紀末頃から沖積地への進出が行なわれたことを物語っており、延喜四年(九〇四)に岡田郡が豊田郡に改称されていることは、これらのことと無関係ではあるまい。