常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第一編 原始・古代

第五章 奈良・平安時代

第二節 古代農民の生活

中央集権的統一国家の建設をめざした大化改新によって、人民を皇室直轄にするため公地公民の制度を採り入れ、班田収授の法を施行し租・庸・調などの税制が実施された。その基幹をなすものは国郡里の制度であり、また戸籍と計帳の作成である。
 地方行政機構は国・評・里に細別されていったが、大宝二年(七〇二)以降に評制が郡制に改められている。里は、『養老令』の「戸令」によれば、「凡そ戸は、五十戸以て里と為よ。里毎に長一人置け。掌らむこと、戸口を検校し、農桑を課せ殖ゑしむること、非違を禁め察む。賦役を催し駈はむこと。若し山谷阻り険しくして、地遠く人稀らならむ処には、便に随ひて量りて置け」とあり、行政的な村落であったことが知られる。この五〇戸一里制は、霊亀元年(七一五)に里を郷と改称し、郷の下に新しい里を二~三里ずつ置く郷里制に改められた。しかし、この郷里制の存続は、天平十一~十二年ころまでの約二五年間にすぎなかったことが明らかにされている。従って、その後は五〇戸一郷制となり、郷が最小の行政単位となり、これを「郷戸」と呼んでいる。
 里には里長が任命され、里内の戸口の点検、勧農および賦役の催促等にあたった。里が郷に改められると、里長も郷長と改称された。里(郷)内には、相互検察、扶助を目的として、五戸をもって組織させる五保の制がしかれていた。
 戸は、郷戸と屋戸とからなっていた。郷戸は大家族からなる戸をいい、それに含まれる小家族からなる戸を房戸と称している。養老五年(七二一)下総国葛飾郡大嶋郷や御野国(美濃国)戸籍によれば、郷戸は二〇~三〇人程度から多い戸では一二四人におよぶが、原則的には血縁関係からなる同族集団であったことが判明している。房戸は、一つ棟の家(住居)に住む単婚家族に近い様相をもつ戸と考えられており、一房戸主のもとにあって独立の世帯を営む戸とみられている。
 このように五〇戸一里に編成された人々は、戸籍に登録された。戸籍は計帳とともに、班田収授や租税の徴収、氏姓の確定などのために六年に一度作成され、戸ごとに戸主を筆頭に戸口の性別・続柄・氏姓・名・年齢、課口、不課口の別などが記されている。戸籍は三〇年を経て廃棄されたが、計帳は毎年作成され庸・調徴収の台帳とされた。正倉院には奈良時代から平安時代初期の戸籍が現在し、そのなかに養老五年(七二一)下総国倉麻(相馬)郡意布郷のものと下総国葛飾郡大嶋郷のものが残っている。また、石岡市鹿の子C遣跡から出土した漆紙文書のなかに、戸籍や計帳の断簡がみられる(Ⅴ-2図)。
 

Ⅴ-2図 石岡市鹿の子C遺跡出土漆紙文書・計帳断簡
(茨城県教育財団『鹿の子C遺跡漆紙文書 図版編』より)

 班田制は、国家の存立にもかゝる重要な制度で、戸籍にもとづいて六歳以上の良民の男子に二段、女子にはその三分の二にあたる一段一二〇歩、賎民の奴婢には良民の男女の三分の一の口分田が班給されるものである。
 このように口分田を班給された農民は、租・庸・調などの租税を負担しなければならなかった。租は、田地に対して課せられた田租で、令の規定では、はじめは一段につき稲二束二把であったが、慶雲三年(七〇六)から一段につき一束五把に改められた。租として徴収された稲は官稲といい、国郡の正倉に貯えられて正税と呼ばれた。これは国司によって管理、運営され、地方財政の財源とされた。
 租だけの収入では、国家財政をまかないきれなかったので、毎年三月と五月に稲を貸し付け、収穫時に五割の利子とともに徴収する出挙(すいこ)の制度も行なわれた。鹿の子C遺跡からは、出挙の貸し付け台帳とみられる漆紙文書が出土している。
 

Ⅴ-3図 石岡市鹿の子C遺跡出土漆紙文書・兵士自備戎具検閲簿
(茨城県教育財団『鹿の子C遺跡漆紙文書 図版編』より)

 庸と調は、人を単位に取り立てられた人頭税である。『大宝令』の規定によれば、庸は一年に一〇日間、都に出て労役に従事することになっていたが、実役に従事しない場合は、麻布二丈六尺を納めるもので、正丁、次丁、中男などの男子に課せられた。調は、令の規定によれば、絹、絁、糸、綿、布など主として繊維製品を納めるものであるが、ところによっては、鉄、鍬あるいは塩などの特産物を納める場合があった。
 さらに、雑徭、仕丁、兵役なども課せられた。雑徭は、国司が年に六〇日を限度として正丁に課せられた労役で、仕丁は、一里(五十戸)ごとに正丁が二人ずつ徴発され、三年交代で中央の雑用に使役されるものである。兵役は、各戸正丁のうちから三人に一人の割合で徴発され、諸国軍団の兵士として勤務するものである。兵士は交替で軍団に勤務し、軍事訓練をうけた。徭役は免除されたが、弓、矢、大刀などの武器や食糧は自弁で、鹿の子C遺跡から軍団兵士の装備の点検に関するものとみられる、兵士自備戎具検閲簿の漆紙文書が出土している(Ⅴ-3図)。
 兵士は軍団に勤務するほか、衛士として一年間、京にのぼって宮廷警備の任につき、あるいは、防人として三年間、九州の防備にあたらねばならなかった。『万葉集』巻二〇には、諸国の防人の歌が収録されており、下総国の防人歌は二二首進上され、一一首が採録されている。