常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第八章 戦後の水海道

第三節 教育改革と新しい文化

敗戦から昭和二二年春の新憲法体制下の教育基本法や学校教育法の施行による教育改革までの約一年半から二年の間は、他のあらゆる分野におけるように、教育界も過渡期の状態にあった。
 これまでの教育方針は敗戦によって根本的な方向の転換を迫られ、現場の教師は苦境に立たされた。昭和二〇年一〇月から一二月にかけて占領軍は、軍国主義及び極端な国家主義教育の禁止、また教育関係からそうした主義者の追放を指令した。さらに修身や日本歴史、地理の授業の停止命令を出すなど、戦前教育の根本的な転換を命じたのである。文部省のいち早い命令もあって学校で教科書中の軍国主義的用語や表現等に墨が塗られたのもこうした情勢によるものであった。
 教育現場における困難な状態は、価値観の変化にもよったが、教員や児童、生徒の生活状態からももたらされた。特に俸給生活者である教員は悪性のインフレと物不足によって日々の暮しをきり盛りするのが精いっぱいという状態で、教員をやめていく者が相ついだ。菅原小学校の「沿革誌」には、一年下るが昭和二三年当時の状態を、「食糧事情悪く、給与が安く、終戦に希望を失い、各校共職員の交代多く、退転職員の補充きかず、職員七名一学期間隔日授業をなす」と記している。前年における同校の教員数は一四名であったから、半数に減少してしまい、隔日授業が余儀なくされていたのであった。
 このような教員不足は一般的な傾向で、結城郡、北相馬郡内では約二〇パーセントの教員欠員状態だったとされ(『茨城県教育史』上巻)、「隔日授業」をしなければならなかった菅原村はその極端な例だったと思われる。退職していく教員の大半が青年教師で、生活難に加えて、教師として児童、生徒に相対するに必要な教養や体面を保つ経費は莫大で、とてもそれが維持出来ない、というのが退職の大きな理由だった。
 『五箇小学校新築記念誌』に寄せられた「思い出」の中から、敗戦後の教員、学校生活のいくつかを紹介する。
 
   終戦直後でありましたので八十数名の児童が一教室に入れられ、机等も足りないので、青年学校で使っ
   ていた「たち板」を机代りに教室一杯に並べ、通路も真中だけしかとれない有様でした。教科書も今の
   ような立派なものでなく新聞紙位の大きさに印刷されたものを切って使用したものです。プールは勿論、
   体育館もなく小貝川や対岸の自然の山林を相手に裸足でかけめぐる教育が繰り返されました。(吉田忠一)
 
   (昭和二二年)当時は今と違って教員が大変不足していて、一クラス五十人から六十人ぐらいはざらにい
   ました。三学期に入るとまもなく、一組の草間忠誠先生が教頭に栄転されたため、後任の補充がつかず、
   六年生は一組二組が合併され、ひと組になってしまいました。一教室に九十九人の児童をかかえますと、
   教壇も教卓も、全く室内におくことができません。児童の机は、黒板から約七〇センチのところまでぎっ
   しりつまり、机と机の間を歩くことさえ困難な状態でした。
   また当時は、終戦後まもなかった時代でしたので色々なものが不足しておりました。児童が使う学用品
   (ノート、鉛筆、消ゴム等)すべて配給制でした。全児童の配給ノートをもらうため、水海道の販売店に
   リヤカーを引いて子どもと共に行ったこともありました。(飯塚亮照)
 
 こうした敗戦直後の学校の状態、児童や教員の生活については、今日、多数の書物に書き残されている。さらに学校では記念アルバム等も作成しており、特別に資料として掲げるまでもないが、これらは当時の子供たちや教員の服装や表情を、文字よりも雄弁に伝えている。
 水海道小学校の「沿革誌」には、戦後になっても天長節(四月二九日)、紀元節(二月一一日)などの行事がGHQによる度重なる視察があったにも拘らず行われていたことが記されているが、それも過渡的な状態で、やがて教員の中から民主化を求める運動が起ってくるに従って、それらの行事はしだいに過去のものとなっていった。
 

終戦直後の学校記念アルバムより(菅原小)