常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第七章 農業生産の発展と農会・産業組合

第二節 農家副業と養蚕業の発展

北相馬郡菅生村は、水田が一一一町であるのに対して、畑地が三八三町という、圧倒的に畑地の多い村であった。しかもこの村の水田は、小谷沼新田にあった約三〇町を除くと、台地と台地の間に細く入り組んだ狭い谷津田が多く、地味もやせて、生産力は高いとは言えなかった。
 畑地をみても一般に肥料の吸収力に乏しい、保水力の微力な、旱魃の被害に見舞われ易い土地柄であった。
 この様に同村の農業はその基盤となる土地の生産力が相対的に低く、農家の経営状態は良くなかった。
 さらに明治末期の時点における「自作小作反別戸数」をみると、第五一表のとおりである。これによると地主層を含む自作農は全体の二〇パーセントに満たず、県平均より一〇パーセント以上低い。小作農は二五パーセント強と県平均にほぼ近く、結局自作農の少ない分は自小作農(五五パーセント)の多さとなって、現われていた。
 
第51表 菅生村自作小作反別戸数
 戸 数耕 地 反 則1戸当
平均反別
自作地小作地
%
自 作98(19.9)135.31051.3800
小 作124(25.1)109.21150.8824
自小作271(55.0)144.4218117.69030.9622
493(100.0)279.7323226.9018
註) 「菅生村是」による。


 
 自作農の一戸当り平均耕作反別は一町三反八畝であるが、自小作九反六畝、小作八反八畝と、いずれも零細なものであり、しかも地味の悪いことは前に見たとおりであった。
 こうした中にあって菅生村においては、明治前期から製茶栽培が奨励され、明治末期において、茶園面積は約一〇町、それに畑の畦や家屋敷の周囲などに植えた茶樹の見積り反別二〇町を加えると、合計三〇町程の茶栽培が行われ、生葉の販売と、製茶の販売が広く営まれていた。同村において製茶従事農家は一九四戸を数え、全生産額は九三二四円という額に達した。これは同村の米(二万六三八〇円)、大小麦(三万二〇八円)、たばこ(一万八五六六円)などに継いで、重要な農家副業であったことを示している(「菅生村是」)。菅生村の製茶は、地形や土地の条件からみて、明治初期から岩井を中心とした猿島茶の生産地帯にはいっていたことは先にもふれたとおりである。
 また、たばこ作付については、三六町余あり、これも猿島郡の桐ケ作たばこ生産地帯に属するものであった。たばこの収量が多いことは、養蚕業を経営する農家の少ないことにつながり、春蚕を飼育する農家が六八戸という状態であった。
 またこの地方で明治末期から奨励された農家副業のひとつに「しゅろ縄」の生産があった。屋敷内のあき地や畑のすみに植えられたしゅろの木の皮から、長く丈夫な繊維が比較的手軽に採取できたため、明治二〇年代頃から、他地方の業者が入っては求めていった。
 日清、日露の戦争の過程で軍需品、すなわち弾薬箱のとってや、荷縄、船舶用の縄として重宝がられ、盛んに奨励、栽培されることになった。しゅろ縄は老人や子供にも簡単に出来、また農繁期でも生産することが出来た。需要の多いものは植木、垣根などに用いられるもので、細い漁具用の縄も生産された。大正六年当時の、最も盛んであった頃の生産数量は、第五二表のとおりであった。この時期には地元の原料だけでは間に合わず、筑波、新治、稲敷、東西茨城の諸郡、また栃木、埼玉、千葉等の近県からも買い集めたという。
 
第52表 しゅろ縄生産の状況(大正6年)
  生産戸数生産数量生産価格1戸平均
生産額
北相馬郡菅生村4088,03027,88468
坂手村356502,25764
内守谷村397152,48363
大井沢村407352,55263
猿島郡七郷村508703,02160
神大実村336002,08363
合 計60511,60040,28066
註) 『茨城県の農家副業』第四編による。


 
 さらにしゅろからは縄ばかりでなく、靴ふきマットや、敷物のマットなども作られ、菅生村内にこれらを生産する専業の工場が出現した。