常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第六章 教育の普及と学校教育の展開

第二節 教育の統制・軍国主義化

第一次世界大戦の起った大正前半期ごろから、文化や思想、そして人々の風潮の中に、大正デモクラシーと呼ばれる若々しい気運が生じてきた。大戦による好景気も、それを支えた。こうした風潮を地方で受けとめたのは主として青年達であった。当時一部学校の若い教師の間には千葉師範を中心に起った自由教育の影響を受け、この実践を試みた例もあった。有名な石下小学校の自由教育もそのひとつである。
 しかしこうした新しい風潮は実は各地の学校に伝わり、上から教える教育だけでなく子供の創造性を重視するような教育への変化は、多かれ少なかれ、どこの学校でも見られる。
 ことに市域の五箇小学校においては、児童詩、児童絵の分野で新しい教育の在り方を追求していた羽田松雄がいたことは注目される。羽田は石下小学校の栗原真平や真壁郡の若柳小学校で児童詩の文集『ワカバ』の編集をしていた吉田三郎、大宝村出身の下妻中学校生徒中山省三郎(のちロシア文学者)らと交流を深めた。また栗原とともに石下小学校における自由教育実践の中心人物湯沢卯吉らとも交流した。
 羽田は大正七年創刊の児童詩、童謡雑誌『赤い鳥』に拠り、児童の作品を投稿したり、また県の教育作品展覧会に出品させ、この中には秋山桑人のように人生を決定する程の重みをもった一等に入選する者もあった。
 大正一〇年六月、水海道小学校に事務局をおいた茨城童謡会が誕生し、雑誌『つばめ』を発刊した。中心となったのは水海道、石下、五箇、菅生等各小学校の教師であったが、これには全県的な広がりの教師が参加をみた。発会式には水海道や五箇の児童による童謡演奏があり、野口雨情、藤森秀夫、霜田史光、畑耕一等の記念講演、日本童謡会から都築益世、加田愛咲らが出演し、たいへんな盛りあがりを見せた(『教員生活の回想』羽田松雄)。
 こうした教師や児童による創作的な活動は、学校からはどのように見られていたかを知る手がかりとして、水海道小学校に残る、同校の「沿革誌」をみると、大正一一年三月三〇日として、「水海道町文芸同好会主催童謡ニ関スル講演会ヲ本校ニ於テ開催、野口雨情氏畑耕一氏ノ講演アリ」という記載がみられる。学校の主な行事等を毎年まとめて記入している「沿革誌」の性格上、年月日は正確であると思われる。とすれば前記した羽田の回想の茨城童謡会の発会式とは別の講演会が、もう一度開かれたことになる。しかし羽田の回想も茨城童謡会の誕生と同時に、その発会式(いわば旗上げ式)を開催したとは書いてなく、翌年三月、つまり「沿革誌」のいう童謡に関する講演会と同一のものという解釈も十分可能である。しかも講師二名が羽田の回想記と重複している。もし同一のものであったとすれば、主催団体は「茨城童謡会」としてではなく、「水海道町文芸同好会」という名儀で、学校を借用していたことになる。学校としても町内の同好会なら貸した理由が成り立つと推測することも出来る。また、同じような催しが別々に開かれたとしても、当時の教育への熱意を示して余りあるといえる。
 羽田の『回想』と、水海道小学校「沿革誌」の比較で、記念講演会の開催日にこだわったが、当時におけるこうした自主的な運動の位置づけを知る上でも、重要なことであったと思われる。
 なお「沿革誌」には、大正一二年五月一一日にも、「野口雨情氏中山晋平氏童謡ニ関スル講演アリ」と記され、こうした運動はなお続いていた。
 羽田松雄らの雑誌『つばめ』は長続きしなかったが、彼らは自らの勤める学校で、独自の文集を、自分たちの手で出し、これら文集の交流が、彼らの重要な研究の手がかりであり、運動の内容をなしていた。
 こうした作文や詩、絵、音楽などを通して、子供の自由な感覚を養い、またたくましく働く次代を鍛えていった。五箇小学校の『新築記念誌』の「思い出」として、当時の様子が綴られている。
 
   二年生の時の担任だった羽田松雄先生の綴方教室での作文集、児童詩、短歌、俳句の作り方はこの時が
   最初の経験でした。野口雨情先生の門下である先生は童謡が大好きで、雨情先生の作詩された「七つの
   子」――カラスなぜ泣くの――を夢中になってみんなで愛唱しました。そして学芸会での児童劇花咲爺
   の演技がすばらしいとやんやの喝釆を浴び、校内でも非常な好評をうけた感激を今でもよく覚えていま
   す。(「時うつれども」小野くに)
 
 時代は大正八~九年という、戦前期においては日本が比較的平和で、陽のさし込む暖かさが感じられる頃の子供たちと学校の姿であった。