常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第六章 教育の普及と学校教育の展開

第一節 二つの私立学校の設立

水海道地方の男子普通中等教育の機関として大きな期待をになって発足した水海道中学は、施設面や生徒の課外活動面などで年々充実されていった。しかし前にも述べたとおり、同校の生徒、入学人員に対する卒業生数の比率は依然としてあまり芳しくなかった。五年課程を修了して卒業したのは、大正初期に至っても入学者の四割前後で、卒業生が五割を超えたのは大正後期になってからであった。卒業率の向上をさまたげていたのは生徒自身の意志もあったが、周囲の中等教育に対する無理解であった。すなわち、農家出身の子弟に対して、中学に三年程度在学すれば充分農業に従事出来るという理由で退学させることが多く、商家においても同様で、家業に就く者は卒業の必要がないとする考え方が、相当根強く残っていた。
 大正四年の第一二回卒業生の動向をみると、卒業生は五一人で、うち進学したもの一〇人、就職したもの四一人であり、入学生徒を一三〇人とするとこの両者で四〇パーセント弱である。ここで就職という場合、農業等の家業に就いた者を含んでいると思われるが、いずれにしても中途退学がかなり多かったといえる。また進学者も開校時に比較すると内容が低調になっていた。
 同校におけるこうした中途退学率の高さ、進学の低調さに示された校運の不振、中等学校としての中途半端な性格に対しては、「水海道中学校は農学校に変更すべし」というような議論さえ生んでいた。
 大正六年、それまで一四年の長い間同校の校長を務めた鶴見次昌に替って荒井庸夫が茨城師範学校から赴任したが、この人事は不振の同校の状態を刷新しようとする県の意向が反映していたと見られた。
 荒井校長は、「至誠、剛健、快活」の三か条を校訓として掲げ、赴任以来様々な校風の改革に努めようとした。生徒に対して、服装の規制(ゲートル着用、靴穿き、草履下駄の禁止)、自転車通学の制限、臨時試験の実施、退学処分の重視、洋服のポケット縫い合わせといった生活、学習面での厳しい方針を打ち出した。そして校長として修身の授業を受持った際には、黒い詰襟の服を着た彼が、鋭い眼つきで生徒を見おろしていたから、この様な態度に対しても生徒たちの間から少なからず反発の声が出てきた。
 生徒たちの反発は例年土曜日に行ってきた秋季運動会が雨天のため普通日に実施されたにもかかわらず、翌日「慰労休暇」を与えられなかったことに端を発し、運動会の後集まった生徒たちから同盟休校を主張する者が出てきた。この時は安藤誠教頭の説得で鎮静に帰したが、承服せずに無届欠席をした五年生の一人に対して、退学処分が出された。
 これに対してその年一二月頃同校の卒業生を中心として、校長弾劾の上申書が知事宛に提出されるとする動きが出て、町内有志野々村源四郎らが調停にのり出し、卒業生たちに弾劾上申書を撤回させる一方、荒井校長に対しても行き過ぎた改革のあったことを指摘し、校長もこれを納得し、同年暮から翌大正七年一月中にかけて、円満解決の話し合いが続けられた。そして一月二五日には、有志代表野々村源四郎と安藤教頭の立合いのもとに、校長と六名の卒業生が話し合って、一応表面的には収まったかに見えた。
 しかしその翌々日頃に至って、校長が同校創設以来学校運営や教育にあたって生徒の間から信望の厚かった安藤教頭以下四名の辞職勧告と、五名の転出を考えている案が外部にもれるに及んで紛議は再燃した。総員一八名の教員中、半ばを超える大幅な人事異動は、同校が世間の注目を集めていた時だけに町内は勿論、県下に大きな波紋を投げた。
 校長と生徒、卒業生の間にはいって斡旋に努めてきた町の有志者にとっては、校長のとった措置は約束違反という感が強く、山中彦兵衛、野々村源四郎、青木常吉、植田利之助、鈴木町長等の有力者が中心となり、県知事にまで陳情に及ぼうとした。しかし安藤らは、自らの立場が誤解されかねないと中止を求め、陳情は実現するには至らなかった。
 しかし卒業生側はこの校長の姿勢に強く反発し、二月二四日、町内報国寺境内で卒業生大会を開催して対決した。当日午後一時から開かれた大会には卒業生七十余名とそれを取りまく傍聴者百余名が集まり、校長を糺弾する発言がつぎつぎと出されたのち、七名の実行委員を選び校長辞職勧告決議文を採択した。
 また『いはらき』新聞紙上でも社説で、校長の言動が地元の感情に背いていることを指摘し、卒業生大会がもたれた二月二四日前後には、「水海道中学の危機」と題する記事が四日連続して紙面のトップに掲げられた。
 この人事異動は結局断行され、この時退職した安藤誠を中心として同年九月、つぎにみる私立学校〝菁莪学館〟が、地元民や卒業生の協力で設立される。また校長に対する生徒たちの反発も一時は鎮まったが、その後も大正デモクラシーという時代思潮や空気を鋭敏に受けとめた生徒たちによって、ストライキ事件などが引き起こされた。その中でもとくに、大正一二年三月、ひとりの教諭の辞職に伴ない、これに抗議する三年生の卒業式ボイコット(吹上山ストライキ)などは、再び同校に不穏な状況をもたらした。こうした動きは、多分に若者の正義感、純粋さが行動に駆りたてたものと思われ、当時は水戸中学校菊池校長のいわゆる「舌禍事件」に端を発した処分と、校長を擁護して同盟休校を続けた水戸中学校事件(大正一〇年)などの起った後でもあり、一種の連鎖反応の観さえあった。