常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第三節 大政翼賛会と太平洋戦争

こうした農村を中心とする生産、販売、購買等全面にわたる国家管理、国家統制への運動と体制が、日中戦争を契機に一層強化される戦時体制と相呼応する形で進行するが、それは単に農村にとどまらず、都市にも当然、様々な影響を与えた。産業組合と「商業階級」との利害対立、官僚による経済統制への反撥は商業都市水海道にもあらわれているが、さらに日中戦争に対応する戦時体制構築はこの町にも課せられてきた。たとえば昭和一三年(一九三八)には、「空襲下ニ於ケル防空設備ノ一トシテ」「水海道町防護団」が九月八日に結団され、九月一八日には模擬爆弾投下演習が町内で行われた。また「支那事変勃発スルヤ国民挙テ一致協力国難打開ニ猛進スヘク」、「国民精神総動員運動」が一〇月の一週間にわたり部落懇談会、一一月の映画講演会、婦人協議会などの方法で行われ、また、八月二八日に「応召軍人援護連絡委員会」が組織され、援護部、相談部、斡旋部の各委員による応召軍人家族慰問、慰問袋の発送、各部落ごとの労力奉仕などが一〇月から一一月にかけて行われている。また、この年の衆院選、町議選を「選挙粛正運動」として行っている。さらに戦死者町葬、戦勝祝賀、軍需品縫製事業などを行っている(昭和一三年度「水海道町事務報告書」)。
 こうした町の動きは、農村の動きと比べると、受動性、消極性が感じられることは否めない。この背景については『水海道新聞』の「水海道よどこへゆく」と題する「町の中堅商店員A」と「近接村有志B」との「対語」が、かなりの程度、明らかにしている(「昭和一四年八月二五日付)。
 その要旨は
 
   B 農村の経済好転で町の景気は「余程良くなったでしょう」。
   A 全体的には問題にならない。農家の人も昨年の水害の疲れ、それに(国民精神総動員運動などによる)
    所謂国民貯蓄熱と戦時生活の心構えが強くなっているから相当ガッチリ構えている。ことに各商店と
    も多かれ少なかれ商品の統制を受け、値幅は益々窮屈になり、殊に商売により産業組合運動に押され
    ている。
   B 私達農村人から見ても水海道町の人達はどうかしている。困った困ったと言っていながら町の首脳部
    も有志も「対策仕様なんて一寸も考えていない様です。役場だってその他の機関だって事務的なこと
    ばかりやるんだったら誰にも出来ますね」。
   A 「町人小乗性と、消極的な、非協同的な人が多い……一切の個人主義的機構が打ちこわされて、所謂
    全体主義乃至協同主義体制に移る時代であることを考えない」。
   B 「国策がどちらかと言うと農村中心に動きいろんな国家的庇護、国家的指導が農村を対象として施設
    され、農村民自体の自営が刻々に向上しているんだから、町が単に村の自然要求にのみ依存するとき
    は全体に町の危機が来るよ。町は町として自主的に更生計画をたて、実践に移るべきだね。農村更生
    運動はあっても都市の更生運動がないんだからおかしな話だ」。
   A 「工場誘致の問題だって、商工会の振興だって万般が結局は資本の問題だから」「持てるものが率先
    陣頭に立たねば到底駄目な」のだが「この町の金持はみんな不在資本家みたい」で「儲けるだけ儲け
    ろ、あとは資本利子で暮す連中なんだから」。
   B 「出ると金が要るから出ない方が得策と考えている」。
   A 「商売によって、困るんならやめたらよかろうとまで御役人から言われている時代なんだから誰も
    が、もっと本気になるべきだと思うがどうにもならない形だね」。
   B 「協同性もなく、企画力もなく、何とかなるだろうでは没落だね。近くの町のどことくらべても一番
    顔色不良な筈だよ」。
   A 「工場でも出来れば敷地でも高く売る考えしかないだろうね」。
   B 「それよりも尚、悪いのは君等の様に時代認識を持ち、動けば動ける人間がそんな批判的なことばか
    り言っていて一歩の実践もしないことですね」。
 
 ここには農村の中の町としての水海道町の、全国的に進行する戦時体制の中でのあり方と課題が、よく示されている。農村への依存が不可能になりつつ、一方で特に軍需産業関連の「工場誘致」(古河町などではそれが進行しつつあった)もできない状況、すなわち農村における「更生運動」に対応するものがない状況での経済的手づまり状態である。このような状況は恐慌と普選以来のこの町の政治状況の変化の一つの帰結でもある「町に勢力の中心がなくなった」政治的状況と表裏の関係にあろう。
 こうした日中戦争前後のこの町の政治的、経済的状況はそれにふさわしい「挙町体制」にひとまず帰結する。まず、県会議員として昭和一三年に武藤久兵衛が当選し、昭和一四年一〇月の選挙では出馬せず、前に述べたクリスチャンの医者で、大生争議の調停者、同町壮年団長、中立系の鈴木春吉が立候補、当選した。その立候補までの経過は「所謂町民大衆」のイニシアティブというよりむしろ「郡部の人々にひきずられた形」といわれた。そして武藤久兵衛も塚田町長もこの選挙を応援し「挙町体制陣」「空前絶後の挙町選挙」として行われ、「県下最高点」で、町でも一二七〇票をとった。しかし、この「挙町態勢を破壊した」といわれた「南茨青年同盟」はこの運動に加わらず独自の立場をとった(『水海道新聞』昭和一四年一〇月二〇日付)。
 また、町議は昭和一二年選挙以来、「資産家階級」あるいは既成勢力とそれ以下の「新興」層の均衡状態であり、その中で、町長選考をめぐって難航した。結局それぞれの派の妥協として昭和一四年段階では塚田節という元土浦中学校校長出身の穏健な人物、そして助役も小学校教員出身の柴沼三郎(昭和八年~昭和一七年)を選出した。