常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第三節 大政翼賛会と太平洋戦争

このような諸階層の政治的な動向は、これまで力を有していた「金持階級は退却」し、「近頃この町には中心勢力というようなものがなくなる」(『水海道新聞』昭和八年一〇月一〇日付)状況となった。すなわち町の政治的社会的な多元化がすすんだといってよい。こうした状況は昭和一〇年(一九三五)の町長選挙において次のような形をとった。同年九月の県議選に、現町長武藤久兵衛が辞職して国民同盟系として立候補し、水海道町では一一四八票と総投票数の九二パーセントをとったが落選した(同前、昭和一〇年一〇月一〇日付)。その後の町長選考が同年一〇月二一日に議員協議会でなされた。前助役犬塚駒吉と武藤久兵衛で争われたが、その結果は七対七で白票二票となった。犬塚を支持したものは秋山藤左衛門、小倉邦一郎(書籍商)、羽田包次、山崎頼次郎等で、武藤を推したのは北川満太郎(米穀繭糸肥料商)、神林鎮男等である(同前、一一月一〇日付)。前者の方は旧来の資産家層が中心で、後者は旧来の民政党系、国民同盟系、南茨青年同盟等、この地域での「新興」層が多かったとみられる。いずれにしてもこの均衡状態は「中心勢力」不在の一つの象徴的現われである。町長の方は不在で、柴沼三郎助役が代行のまま続き、昭和一〇年に武藤に落ちついた。そして昭和一二年(一九三七)六月、「穏健」といわれた塚田節(元土浦中学校長)が町長となる。
 この間、昭和一〇年の県議選、昭和一一年の衆院選はいずれも「選挙粛正運動」による官僚主導の「粛正選挙」が行われた。また昭和一一年の特別議会などで米穀自治管理法など諸統制立法による「殆(ほとん)ど命令的に全県下に結成された産業組合」は「特に商業階級」への脅威として意識されはじめている(同前、昭和一一年七月一五日、同三〇日付)。もちろん、町部ということもあって町の産業組合の機能は「揚水機組合と米穀自治管理のみ」(同前、昭和一一年一一月二五日付)であったが、政治的、経済的な国家的動向については、多くの違和感があった。それは国家の「上層部に於ける新官僚運動とか官僚フハ(ママ)シズムとかの潮流が自然的に下層部迄浸透しこの変態的重圧と吾人は感受(ママ)するのではあるまいか」として「かゝる場合憲政の常道への復帰即ち民衆の真実の願望によりて正しき政党政治の出現こそ現代日本の為に心から待望される」(同前、昭和一一年七月三日付、古谷明記)、あるいは「何といっても今日の日本の政治程うっとうしく、陰欝(いんうつ)なものはない。官れう(僚)政治の悪質をさらけ出している。政党政治への復権がこれを求う(ママ)唯一の道だ。ともあれこんな空気だと民衆は窒息する」(同前、一一月五日付)と、二・二六事件以降、強まる政治的、経済的な上からの統制をもってのぞむ官僚政治に反感をもち、旧来の体制―政党政治への復帰を強くのぞむ意見もその一例である。
 そうした中で昭和一二年五月一五日に第一回粛正選挙として町議選が行われた。結果は、投票は行われたものの無競争で全員が当選した。新人議員は五名で、構成は前回とほとんど変わっていない。変わった所では社会大衆党の菊池重作が一二二票を獲得して第二位で当選(前回共倒れで落選)した。無産運動は弾圧されて運動らしいものができない時点にもかかわらず、菊池が初めて当選したのは社会大衆党自体の右傾化もあったが、「労働者、農民、小売商人、下っ端サラリーマン」(菊池談、同前、二月五日付)の支持があったといってよい(なお常鉄労働者の荒井直吉も引続き当選)。また南茨青年同盟は久保村市男を事務局長にして、斉藤茂一郎の経営する鉱山に勤めることになって退いた神林鎮男(同前、昭和一二年二月五日付)に代わって志富靱負を立て九三票で七位で当選させている(同前、五月二〇日付)。新人は無産派、南茨青年同盟という前回と同じ母体からの二人の新人を除く三名であるから、二・二六事件以降の国政の変化と町内の政治的変化は必ずしも一致していない。そして新町議の下で町長が変わった。武藤町長(国民同盟系)の後任選考に入ったが「なか/\難産、鈴木氏受けず、前土浦中学校長塚田節氏説台頭、しかし町民の総意はこれに気薄だし、矢張りもっと町民と接触の深い人がほしいと言っている……近衛内閣ではないが、町の時局匡救のために鈴木御大が出てくれるといゝという話が多い」(同前、六月一〇日付)という経過を経て、結局、塚田に決まった。右の「鈴木御大」は、多分鈴木吉太郎と思われるが、この時期に旧来の名望家の名前が強く支持されていることは注目される。さらに鈴木の固辞で町長になった塚田もごく穏健な人物といってよい(同前、六月二五日付)。