常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第二節 日中戦争前後

五箇村は総戸数四八五戸、そのうち農家戸数四〇五戸(昭和九年調査)の純農村地域であった。農産物価格総額では、農業恐慌前までの昭和三年には、米約一七万四〇〇〇円(五三パーセント)麦四万三〇〇〇円(一三パーセント)繭一〇万九〇〇〇円(三三パーセント)であり、米作中心であるが養蚕業も盛んな地域であった。ところが昭和四年(一九二九)以降の恐慌の中で、まず主要農産物価格総額が、昭和三年の三二万六〇〇〇円から、昭和九年には二四万七〇〇〇円と減少し(水海道市役所蔵の各年次「五箇村事務報告書」)構成比も米七四パーセント、麦六パーセント、繭一九パーセントと、繭と麦、特に繭の減少が著しい。そして、一戸当たりの養蚕収入も収穫高は二二パーセントも増加しているにもかかわらず昭和三年一二〇九円から昭和九年一五五円と減少し、さらに一戸当たりの農産物の価格総額も昭和三年には八〇七円であったものが、昭和九年には六四二円まで下がっている。さらに昭和九年に農家一戸当たりの負債額は五七三円に達し、年間六三円の利子がついた。また、村内の戸数のうち七割強が「負債アルモノ」であった(「結城郡五箇村経済更生計画基本調査」昭和九年)。こうした恐慌の影響はこの村の恐慌以前の政治的あり方にも変化をもたらさずにはおかなかった。
 この村でも明治後期から大正末期までは飯村忠七―飯村五郎をトップとする地主で名望家、政友会系勢力の強固な地域であった。こうしたあり方に対抗する動きが、大正一二~一五年の青年団自主化運動としてあらわれた。そのリーダーは高島惣吉、横田新六郎、長岡健一郎、吉田茂、岡田敏夫たちである。高島を除いて彼らは自作や自小作、小作階層出身であるが、青年団運動にかかわったメンバーは全体としては中小地主の子弟が多かったといわれる(高島惣吉談)。また高島は民政党系青年団体「惜春会」のメンバーで、彼らもふくめてこの地域の青年たちの連携もなされる。昭和四年八月四日に「水海道地方青年大会」が水海道町宝来館で、一町一三か村の代表によって開かれた。ここには五箇村からは長岡、横田、高島(村青年会長)の他に本橋良一、菊田重一、野口豊、福田四郎、石川文雄、石川菊次、朝川喜代の一〇名、大生村からは山崎淳、広瀬正、三妻村からは染谷秋之助(惜春会メンバー)が参加し、染谷が座長、広瀬が副議長、山崎、高島、沼尻茂、川口正夫、大好嘉伝治、皆葉左内、古谷長助、田村孝平、岡野秀雄が委員となり、高島が委員長となった。「祝電」は飯村五郎、風見章、今東光、「祝辞」は土浦町亀城立憲同志会(民政党系)代表及び「群馬県上毛大衆社代表」の肩書をもつ菊池重作から寄せられた。
 この大会では、生活改善運動(十和村、亀田寛一提案)、青年会組織改造(染谷)、農村振興策(大花羽、古谷長助)、協同組合設立(山崎淳)、地方青年公休日一定(長崎、豊田義三郎)、おれの村の青年会報告(横田)、農村青年娯楽機関設置(五箇、朝川)など一四議案が提出され、討論された。たとえば青年会改造は各村青年会の自由問題とする、協同組合設立案については今後なお提案者たる大生村青年会において研究を遂げその結果を各青年会に発表して検討すること、などが申しあわれた(『水海道新聞』昭和四年八月一五日付)。その内容について傍聴していた菊池は次のように述べている。すなわち官制青年会改造問題と農村問題の二つに大別され、前者については官制青年団を脱退して青年のための青年会の確立、後者については、農業教育の徹底による技術向上、収穫増大、協同組合を作って新式農具の購入、耕作手段の改善、能率の増進、農村金融機関の完備による低利資金の融通であったという(『水海道新聞』昭和四年一〇月五日付)。
 飯村五郎や風見からの祝電や、前に述べた町青年会長の沼尻茂のような政友会系の人々が参加しているごとく、政治的に一色でなく、文字通りこの地域の青年会のリーダーの集まりである。しかし、惜春会支部委員長の染谷が座長、後に農民運動家になる広瀬正が副議長、委員長が高島、さらに来賓は民政党系の亀城立憲青年会代表並びに無産運動のリーダー菊池重作などの人物配置や、染谷や山崎などによって提案されたものが主要な討論内容であったこと、の二点からも、政治的には民政党系と無産運動系との連合がイニシアティブをとっていたといってよいであろう。もちろんこの段階では両者は未分化な形で連合し、これらの青年は全体としては民政党新人の風見章を支持する傾向を有していた。しかし染谷のように後に民政党系に、あるいは山崎、横田、広瀬などのように無産運動に走るといった多様化を示していく。この青年大会でも町青年会からの参加者は二人で、あとの七十数名はほとんど村部であり、この中でも五箇村青年会メンバーは重要な役割を果たした。
 こうした五箇村の青年たちは昭和四、五年には読書会を村内につくり、ブハーリンの『唯物史観』等を初め様々な傾向の図書を読書無尽で購入して読んだ。彼らは青年訓練所指導者排斥運動を起したり、同五年に、橘孝三郎講演会を五箇小学校で開催したり、あるいは前に述べたように大生争議などにも関わっていた。これらの動きはいずれも飯村忠七―五郎を中心とする村内主流派の政友会系からは「左翼的」として警戒されたという(高島氏談)。このような動きもあって昭和四年四月の普選第一回村会選挙には石川家守、角野映、高島嘉平等の自作、自作及び地主で、風見章、民政党系に連らなる新人村議が当選する。一方横田などは昭和七年に五箇村に左翼的な文化サークルをつくり、昭和八年一〇月には日本共産党茨城県委員会の指導のもとに活動したとの容疑で、大生の山崎淳や、水海道町にある常総鉄道や東京電燈営業所で活躍した人々とともに治安維持法違反として検挙、取調べをうけている(羽田卯三郎『茨城県共産主義運動史』)。