常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第二節 日中戦争前後

大生争議のリーダーである山崎たちが「農民は、自分自らの力に依って行詰まる現状を打破するため」の一つとしての小作層を中心とした共同購買、販売、消費、生産の機能を果たす「生産組合」=協同組合を昭和六年に作ったことはすでにふれた。政府、県も恐慌対策として昭和七年から農山漁村経済自立更生運動、及びその中核的組織として位置づけた産業組合の拡充計画をすすめていた。同じ農民の自立であっても後者は、地主・小作関係の変革を回避し、かつ費用をかけない、安上りの農村「更生」であり、イデオロギーとしては都市と農村の対立を強調する農本主義であった。
 こうした状況の中でこの地域の無産運動の側は協同組合にいかにかかわっていったのだろうか。昭和六年から七年にかけて大生の組合の協同組合的側面が県連でも高く評価されていた。それを一つの基盤にした大生争議が終結を迎えようとした昭和八年三月に全農総本部派茨城県連合会は、三月に開かれる全国大会建議案を作っている。すなわち「肥料生活必需品等の独占価格に対する建議案」として「今日農民の作る物で農民がつけた値で売れる物が一つだってあるか、然るに農民の買わなければならない肥料農具等から生活用品に至る迄一切の物が資本家の独占的なつけ値で押しつけられて居る、故に我々は都市労働者との連係(ママ)の上に階級的立場に立ったところの全国的な協同組合の設置を要望する」、その「実行方法」として「階級的な消費組合生産組合を組織すること、政治的に県下或は当該地方の肥料大販売商に対して抗議したり、値下げを勧告すること……この運動を全国的に起すべくこれを全国大会に建議」する、既存の産業組合に対しては「ブルジョワ産業組合に対しては地方の特殊な事情を考慮して階級的立場に立ち内外からその機能を破壊すること」(以下断らない限り「大原社研資料」)である、というものであった。この県連の案はこれまでの経緯から、明らかに大生村の組織と実際がモデルの一つとして考えられたとしてよいだろう。そして全農総本部派の昭和八年三月の第六回全国大会で既存の産業組合――農家実行組合(昭和七年の法改正で産業組合加入の道開かれる)への無産運動の側からの「喰い込み」が提起された(奥谷松治『日本協同組合史』三〇〇頁)。
 大生争議の終結後は全農県連の方針はこの方向を強める。昭和八年一一月の全農古河地区大会議案でも「農会、農家実行組合、産業組合」に対して「福岡支部のように」「大衆的反対派」として参加して「自主化」し、「有害の場合は廃止にまで進むべき」としている。しかし他方自作農の「ファッショに捲き込まれる多くの危険性」や「産業組合が近頃、農民組合とまぎらわしいような宣伝をして、『農民の更生は産業組合から』などとワメイテイル」状況も認識されていた。そして支部の「共同購入、共同出荷等の」消費、生産組合の運動の前進を提起している(一一月一八日付)。そして五・一五事件の後成立した斉藤内閣の下で昭和八年一一月七日に開かれた、主として農村対策のための内政閣僚会議第一回の席上、後藤文夫農相が「今後の農業政策を産業組合を整備させ、それを通してやっていく」こと、このように「整備された産業組合を単に経済団体にとゞめることなく、政治団体に変えていき農村の不安を一掃しよう」との意見に対して「ファシスト政策確保の新たな手口を以て攻撃を開始して来た」と評している(「全農県連北部出張所、一一月三〇日付)。ちなみに、風見章は、自らも政治化させたこのような産業組合を自己の一つの基盤としていた。
 しかし翌昭和九年になると全農の農民組合内部にも「勤労農民生活保証要求活動」の一環として「農家実行組合が産業組合に参加していること、県では相当の政策を立てているから、部落に農家実行組合を設けさせ、産業組合――県を通じて仕事をしよう」とする動きも現われてくる(水海道町横町鈴木政一郎から全農関東出張所小田整宛ハガキ、昭和九年二月二〇日付)。また産業組合の青年部といってよい「産青連内に於ける将来のヘゲモニーを目指しての闘争を我々は精力的に闘うであろう」(黒川喜七郎―栃木か茨城の県連関係者から同前所黒田寿男宛ハガキ、昭和九年五月一六日付)というような、既存の産業組合に農民組合から参加しようとする動きが強くなってくる。そして「活動分子の投獄、指導的地位にあったものの転向、農村ファッショの活動等は全農の活動を衰微させ」、「たゞ一部の支部に於て飯米払下げ運動がなされ始めたが……産業組合等にその活動を奪われたる多(ママ)あり」(全農茨連北部出張所から全農関東出張所への「報告」昭和九年八月一四日付)という状況であった。やがて翌昭和一〇年になると山崎淳などの全農全会派や常総鉄道労組関係者などの検挙をみて総本部派は昭和九年一二月二〇日に「共産党絶対反対」の決議、声明を出したが、昭和九年一月一一日に三たび総本部派県連にも「大弾圧」がかかり幹部二〇名の検挙(「県連合会活動報告」昭和一〇年三月)で組織は「非公然か、解消迄押しつめられ」(鹿島郡新宮村川添から関東出張所宛ハガキ、昭和一〇年八月一二日付)る状況にいたる。