常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第一節 普選運動と恐慌

豊水橋架設までの過程は、単に政治の問題だけではなく、この地域の住民の日常生活や商品の運搬等の経済生活の発展への対応を示している。鬼怒川をはさんで水海道・谷田部と豊岡・岩井・野田・古河方面をつなぐ交通の要路としての豊水橋が鉄筋コンクリートによる橋として着工されたのは大正一三年であり、完成したのは大正一五年七月二五日であった。それまで両地域間をつなぐ「唯一の交通要路」といわれた所は、古来から渡船によってつながれていたが、「時勢の進展に伴い」人馬の往来、物貨の運輸等しだいに頻繁になったため、橋をかける計画が作られた。明治二一年(一八八八)水海道町の青木利平、五木田惣右衛門、豊岡村の永野忠助等の有力商人、並びに当時の水海道町長神郡嘉平、豊岡村々長永野三左衛門等の主唱の下に、株式組織を以て有料橋、即ち賃取橋架設が図られ、明治二三年(一八九〇)四月に開通した。ところが明治三一年にこの路線が県道に編入されると、この有料制は廃止され、やがて橋は自然腐朽にまかされ、再び昔の渡船にもどってしまった。そこで明治三六年四月に三万八〇〇〇円を投じて本橋を架設し、以後修理を重ねたが、交通危険な状態となった。このため水海道、豊岡及び付近関係町村長、有志等が度々出県陳情の結果、二五万三千余円の予算で大正一三年二月に起工のはこびとなった。そして満二年半で完成し、大正一五年七月二五日に開通祝賀式が挙行された。
 これまでみてきた豊水橋架設の過程は、幕末、明治、大正という時期におけるこの地域の地域的利害の社会的、政治的解決の仕方を典型的に示しているといってよい。
 

豊水橋(コンクリート橋)の渡りぞめ

 この地域の政治的動向は、徳川時代において旗本領ということもあって、水海道町においては他の城下町などと比べて町人たちによる鬼怒水運を中心とする自由な商工業の発展がみられ、それが明治以降も順調に育っていった。有力商人や資産家たち、さらに村部における地主、企業家たちなど総じて名望家によって町村行政が担当され、その基盤の上に県議、特に政友会県議が地域的利害を媒介することによって優位を保っている状況であった。このような中にあって、大正~昭和期には、その状況自体を変えるような豊かで多様な動きが現われてくる。それは読書会や青年団運動等にあらわれる青年たちの動きであり、茨城県における近代的農民運動の最初といわれる菅生争議であり、教育における自由教育運動等である。これらは普通選挙や恐慌を通して明確に政治的に顕在化し、やがてこれまでの有力商人や名望家中心の政治秩序を動揺させ、この地域の町村の政治的あり方の変化を促し構成する重要な要因となっていった。