常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第五章 大正~昭和期の政治と太平洋戦争

第一節 普選運動と恐慌

大正~昭和初期の水海道地域を、経済的、政治的、さらに日常の生活において考えてみると、結城郡水海道町、大生、三妻、五箇、豊岡、大花羽、菅原村の一町六か村、ならびに隣接の北相馬郡坂手、菅生、内守谷、小絹の四か村さらに筑波郡の鹿島、長崎、十和の三か村の計一町一三か村にわたっている。これら町村が一つの地域的つながりを有していたことは、地元の新聞でもそのように扱われ(『水海道新聞』、昭和四年(一九二九)一一月五日付録、第六編水海道の近現代資料参照)、また大正一五年(一九二六)に結城郡役所が廃止された後、水海道警察署管轄区域として行政的にも明確にされている。
 この地域の大正期における経済的性格をみると水海道町は大正九年(一九二〇)段階で総人口六三六三人、産業人口三〇八三人のうち、農業約一九パーセント、工業二七パーセント、商業三七パーセント、公務自由業六・二パーセント、交通業四パーセント(『大正九年度国勢調査』より)と商工中心の、その意味で都市的性格を有しているが、他の周辺村はたとえば五箇村では総戸数四八五戸のうち農家戸数四〇五戸(昭和九年調査)のごとく、全体として純農村といってよい。
 大正期における町村政治の動向を、町村長の人物から見てみると、水海道町長は明治四四年(一九一一)から昭和二年(一九二七)まで鈴木吉太郎である。鈴木は慶応二年(一八六六)同町農家に生まれ、消防組小頭、町議、水利組合役員、地主会長、県農会長、郡議等役職を歴任し、他方水海道食品株式会社、水海道電気、水海道銀行重役などを務め、町長辞任後県会議員となる。この間常総鉄道建設、高等女学校昇格などに奔走し、昭和四年時には県参事会長、水海道農業倉庫組合長などをつとめている。
 周辺農村では、例えば豊岡村の村長は飯田嘉兵衛(大正一一~大正一四年)、飯田憲之助(大正一四~昭和四年)であるが、嘉兵衛は醬油醸造業で早大卒、村議、村長、郡議、郡会議長などを歴任し、大正一二年に政友会県議となり、水海道高等女学校昇格、豊水橋架設につとめた人物である。また憲之助は「地方有数の素封家」の長男に生れ、水海道中、早大卒、後に民政党県議となる人物である。三妻村の場合、有田善吉(大正四~一二年)、猪瀬重右衛門(大正一二~昭和四年)が村長である。猪瀬は「同地方の旧家にして代々名主」の家に生まれ、済生学舎などを卒業して郡議、村議、水利組合役員などを歴任している。他の村も地主で産を有する名望家がこの時期に村長になっている。
 こうしたこの地域の町村を基盤に県会議員が選ばれる。大正期におけるこの地域を基盤とする県議は飯村忠七(政友会、五箇村出身、村長、郡議、県議―明治四四年、大正八年、同一二年当選、県会議長、地主)、渡辺亀三郎(政友会、大形村出身、下妻中卒、青年会長、消防団長、水利組合会議員、郡議、県議―大正一二年、昭和二年当選、鬼怒川工業、茨城セメント、常南鉄道その他の重役)、飯田嘉兵衛(前出)、中村鼎(政友会、小絹村出身、県師範卒、郡議、村長、県議―大正一二年当選、村長)、などである。彼らは共通に豪農、豪商の家柄で、他方で企業に関係し、村では水利組合、農会等、農民生活と生産に影響力を有し村議、村長として各村のトップリーダーとして、郡議などを経歴したり併職して県議となっている。そして水海道高等女学校昇格、豊水橋架設、警察分署の昇格などに尽力して、それらを実現している。さらに小学校改築、宗道、大形村間県道、鬼怒川架橋などにも「尽瘁し益々徳望を集め」ていたといわれる(町村長の任期については『茨城県市町村総覧』昭和三二年、また各人物の経歴については羽田守之助『水海道警察分署昇格並豊水橋新築落成記念』昭和四年、『茨城県議会史』一、二巻付録「県議略歴」より)。
 結城郡選出県議の党派別をみると、大正四年中立三、大正八年~一二年政友会二、中立一、昭和二年政友会一、憲政会一、中立一名で、大正期は政友会が優位にたっている。県議はこの時期は大部分が村部の出身で、政友会の優位は、名望家である町村長、県議等による地域的利害の実現を図ることによって保証されていたといってよい。このことは水海道町においても同様で、明治後期から昭和初期まで一人の町長が連続して就任していたことは町の状況が経済的、政治的に安定していたこと、あるいは経済的、社会的変化に町長もふくむ資産家、名望家達がよく対応していたことを物語っている。さらには町民にとって町政等の政治の占める比重が他の経済的活動に比べて少かったことなども考えられる。その状況は次のように評された。
 
 「従来(昭和三年二月普選第一回目の衆院選まで)当地方の政党的分野からいったら往時の自由党時代はいざ知らず一向に画然たる旗色が見えず、伝統的に不活発ながら政友派に頼るところがあったようだ。これは資産家の一部が政友派としていささかなりとも色彩をもっていたので、多くはその支配下を脱すること能わずに保護色に覆われていたものと見るのが妥当であろう。この傾向は当時以前の町会議員の色彩がよく物語っている。即ち町議の大部分は資産家で政友派若しくは生温い穏健中立者が占めていて、断然反対派として、孤軍奮闘していたのは大串浩、中野喜太郎氏等を挙げ得るのみであった」(『水海道新聞』昭和四年八月五日付)。
 
 こうしたこの段階における町村の政治的あり方が県会議員選挙における政友派の強さを支え、且つ衆院選における政友派の優位(大正九年高柳淳之助、政友派、結城郡筑波郡区定員一人、大正一三年、飯村忠七の養嗣子五郎、政友会、同前区定員一人)を支え、その県議、代議士の働きがまた町村の支持をつくり出していたといってよい。こうした名望家による地域的利害の実現は様々に存在するが、それを典型的に示すものが、警察分署昇格、豊水橋架設の過程であった。