常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第四章 諸産業の発展と交通

第二節 諸会社の設立と銀行

水海道商品株式会社は、明治三三年一一月、商品委託売買及び倉庫業、運送業、金銭貸付業等の業務を行うものとして、資本金一〇万円(払込金額三万五〇〇〇円)をもって同町の有力商人青木伊兵衛が設立したものである。会社の所在地は町内八六番地三号で、この地は鬼怒川の河岸場で、元今井河岸のあった所とされている(『常総文化史年表』)。
 同社の設立にあたっては青木伊兵衛が中心となり、町内外の有力者から出資を募ったものであるが、彼に協力して設立時専務理事になったのは、筑波郡大穂村の大久保喜作という人物であったといわれている(『茨城人名辞書』)。彼は若くして上京し、専修学校などで政治、法律、理財などの学問を積み、大蔵省銀行局や、会計検査院判任官などをつとめたのち、帰郷していたものであった。
 こうした人物をもまき込んで華々しくスタートしたが、明治三五年八月、小谷沼改修にあたっていた青木社長が急逝するという事故があり、同社の経営には翌年三月から、町内の植田清五郎が就いた。彼は米穀取引を中心に発展した富豪のひとりであり、青木前社長とともに町会議員にも就いていた。この植田は、明治三八年九月辞任し、替って青木嘉平治が社長になった。
 いま明治三八年当時の営業内容を、同社の「第拾壱期営業報告書」によってみると、営業は大きく「貸付部」と「倉庫部」に分かれていた。前者は主に問屋に対し穀物や繭を買うための資金貸付を行った。すなわち問屋が農家から現金で買いこれを倉庫におさめ市場価格の動向をみて同社から輸送するもので、商品販売方法は主に手形で決済して、資金の回収をはかった。また後者は、穀物や肥料の保管業務で、荷主においてその取り扱い方法は決定されたが、作柄や景気変動によって大きく左右されることが多かった。すなわち、つぎのとおりである。
 
   当期ハ米雑穀共収穫当時高価ニシテ其後漸次低落ニ傾キ各地皆不引合ノ為メ荷主ハ何レモ輸出ヲ躊躇シ
   殊ニ米ハ東北地方凶作ノ為メ陸路北地ニ輸送セラレ肥料ノ如キモ凶作見越ノ為メ輸入高平年ノ額ニ達セ
   ズ……
                              (同前明治三八年「第拾壱期営業報告書」)
 
 述べられていることは、東北地方凶作のため米が陸路この地方に運ばれたこと、東京方面からの肥料の入荷も、買い控えのため、鬼怒川を上下する同社の運輸部門としての船舶が利用されず、倉庫業とともに振わなかった、ということであった。
 同年における「保管貨物出入表」によると保管貨物は穀物類と肥料が大半を占めた。穀物では、大麦、玄米、小麦、外国米、糯米が多く、他に大豆、胡摩、割麦、小豆、菜種なども扱われ、穀物のほか藍葉、藍玉も含まれていた。肥料では、石灰、大豆粕、共益肥料、多木肥料、牛糞が多く、叭糠、硫曹肥料がこれに続いた。しかも肥料の種類は粕類など全部で二七種類に及ぶほどであった。
 このほか取り扱い量の多い商品としては才田、赤穂などの塩、雑貨、木炭、材木、石類、繭、干草、醬油、陶器が上位をしめている。また薪、石炭の取り扱い量は同一の統計では処理出来ず別扱いする程、多かったようである。
 この商品会社は水海道銀行が設立されて、銀行の倉庫業務を肩替りする形で同銀行の有力株主が共同出資し設立したもので、輸送体系における水、陸両様時代の河岸機能の一部を示していたと思われる。しかし陸上交通が次第に発達し、常総線の敷設問題などが日程にのぼってくるに従い、その役割は小さくなっていったものと見られる。明治四二年、会社は解散し、その跡地は、水海道銀行倉庫に変った。明治三八年下季当時の同社の役員は社長には青木嘉平治、取締役として永野忠兵衛、中山嘉伝次、監査役に和田高太郎、長塚重明、山中喜兵衛が就いていた。
 なお、明治三五年九月には、「水海道洋物合資会社」と名乗る会社が設立をみたが、取り扱い商品等は不明である。しかしこの会社も前の商品会社と同様、新しい形での商業活動を目指したものであった。