常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第三章 明治期農村のすがた

第一節 地租改正と農村の変化

「猿島茶」を中心としたこの地方製茶業の歴史的伝統の上に立って菅生村に製茶功労者の一人がいた。大塚戸生まれの糸賀清五郎(文久三年~大正一二)がそれであった。糸賀の業績をたたえた顕彰碑等によれば、かれは、水戸農学校の前身である茨城県農事講習所に入り、のち、北相馬郡茶業組合製茶伝習所に進み、やがて茨城県連合製茶研究所を卒業した。こうして製茶の技術を修得した彼は村に帰り明治三一年(一八九八)、私立の製茶伝習所を開設し、主として地方の青年たちにお茶の作り方を教えたのである。糸賀は最初、自宅に製茶伝習所を開設し、田植前にあたる五月末から六月なかばにかけて近隣の農民に茶の製法を教授したが、明治三三年に製茶伝習所を開設し、北相馬茶業組合製茶伝習所と名づけ、あわせて伝習所規則を定めた。「製茶伝習ノ目的并ニ伝習生心得」の中で、「日本茶業界ヲシテ静岡風ノ緑茶製造法ニ改良セシメ純良ノ茶ヲ製造輸出シ需要国ノ信用ヲ堅固ニシ倍々斯業ノ盛大ヲ謀」るとうたった。そして伝習生には品行方正な人格を要求し、伝習の期間を一週間と定めた。
 伝習生は毎日自分の試作品を提出し、糸賀に鑑定してもらい、結果は点数で、甲乙丙の評定をうけた。品行三〇点、形状二〇点、色沢二〇点、水色二〇点、香味二〇点、火度二〇点、蒸度二〇点で合計一五〇点満点とした。甲ランクは一三五点以上、乙は一二五~一三四点、丙は一〇五~一二四点と定められ、伝習生は毎日の試験に合格するため懸命に製茶技術の習得に励んだという。
 伝習料は無料であったが、つけ届けする者もあった。伝習所は伝習生の試作した相当量の茶を販売することで一定の収益をあげた。一週間の特訓をうけた伝習生も、一定水準の良質の茶を製造できるようになれば、近隣や猿島方面の茶商がきてよい値で買い取ってくれ、農家副業として成り立つようになった。
 開設当初の明治三三年(一九〇〇)には北相馬郡菅生村、坂手村、守谷町、小絹村、大野村、猿島郡弓馬田村、神大実村などから四一名の伝習生が集まり、三四年には六〇名というように、大正一二年まで延べ千百余名の伝習生が集まった。さらに中川村、弓馬田村、飯島村の三か所にも糸賀が指導する製茶伝習所が設置されるほどの盛況ぶりを示した(「伝習所規則連名帳、同目的心得、糸賀清五郎」によった)。
 糸賀清五郎はさらに製茶技術の研究のため明治三七年(一九〇四)には東京西原の製茶試験所で研究を積み、帰村すると直ちに北相馬郡茶業研究会をつくり、それ以来欠かすことなく毎年製茶の伝習所と研究会を開いて猿島茶の発展に貢献したという。
 また時代は下るが、昭和期に入ってから、坂手村野口の岡野清左衛門が製茶伝習所を開設し付近一帯に製茶の技術を普及させた。「菅生村是」も糸賀の伝習所や茶業研究会の活躍を、「多クノ伝習生ヲ養成シ其製法モ大ニ改マレリ」と評価した。しかしさらに改良の余地があり、製茶一貫目につき一円八〇銭という価格から二円五〇銭にあげること、また生葉で販売せずに製茶にして販売することなどいくつか改善すべき点も同時に記されていた。
 
第20表 北相馬茶業組合製茶伝習所伝習生一覧(明治30~大正12)
旧町村名現市町村名人数
菅生村大塚戸水海道市大塚戸町235
 〃 菅生 〃  菅生町251
坂手村 〃  坂手町164
内守谷村 〃  内守谷町88
豊田村 〃  豊岡町12
小  計750
守谷町北相馬守谷町13
小絹村筑波郡谷和原村22
高井村取手市高井1
大井沢村北相馬,守谷町33
小  計69
岩井町岩井市4
中川村岩井市18
七郷村岩井市159
神大実村岩井市47
弓馬田村岩井市9
大口新田岩井市1
小  計238
旭 村筑波郡大穂町10
葛城村 〃 谷田部町9
作岡村 〃 筑波町2
小  計21
福田村木野崎千葉県野田市1
葛飾郡布佐町 〃 我孫子市1
 小  計2
外に中川,弓馬田,飯島村
3ヶ所
64
註) 糸賀清五郎「伝習所連名帳」(明治33年起)より作成