常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第二章 学校教育の発足

第三節 学校教育の発展と地域文化

渡辺華洲(武助)は嘉永五年、岡田郡花島村の武兵衛家の第二子として生まれた。武助は幼時から学問の環境に恵まれ、外祖父や父、そして村に居を構えた児島東海(江州藩士)といった学者から基礎的な経義や詩を学び、さらに一時家を出て、土浦の薬舗久根間氏方に寄留して勉学にいそしんだ。学制発布に際して印旛県の教員養成所(共立学舎)で講習を受け、大輪小学校に赴任した事情は小学校教育の所でも見たとおりである。
 明治九年四月には茨城師範の土浦分校に入学し、卒業後、貝谷小学校(現八千代町域)、上蛇小学校の二校の教員をつとめることになった。そして、明治一八年一月に小野田三作に代って水海道小学校校長となり、明治二三年ここを依願免官になる迄約六年三か月在任する。
 かたわら彼は明治一三年頃から全国各地に起った国会開設を求める運動にも参加し、当地方でも行われた署名運動においては、花島村九三名の総代のひとりとして名前を連ねた。またその頃から明治一四、五年にかけて各地で開かれた政談演説会や学習会にも積極的にかかわっていた。もっとも、水海道で開かれた演説会での教育者の活躍は目覚ましく、塚田柳斉、北条役三郎、長沼梅仙といった人びとが一堂に会したこともあり(明治一四年六月一九日、『茨城県史料=近代政治社会編Ⅱ』)、当時における教員の地位と指導性の高さを示すものとなっている。
 

渡辺華洲

 武助が四〇歳前に校長職を辞した理由は明らかではないが、辞職後は地元に「華洲塾」なる家塾を開き、地域の小学校卒業以上の青少年の教育に尽力する一方、絹水吟社などに加わり、小林林塘、塚田柳斉等の有力者を中心とした文化運動の中心メンバーとなる。そして明治三二年(一八九九)には、四六歳で県会議員に当選した。この間下妻中学水海道分校の設置について秋場庸とともに奔走し、その創立に大きな功績をあげる。
 期に満たずして県議をやめた後明治三五年、彼は日本弘道会の常任幹事に推され、これに就くべく上京する。弘道会は西村茂樹が起こした儒教中心の道徳を説く教化団体で、彼は二代目会長となった谷干城の推せんでその役職に就くことになったのである。
 明治四一年帰郷後は家塾を再開し、以降大正中期ごろまで継続する。その間、地元から日清、日露戦争に従事した兵士の戦功を伝える「紀功碑」の撰文を行ったのを始めとして、昭和四年七八歳で没するまで、各地碑文の撰、書にあたる。中でも安楽寺本堂再建の碑、児島東海先生碑、秋場桂園先生碑、三師紀功碑、小林蔵六碑、朝日商豆招魂碑など、市内外に残る数多くの碑が武助の手になったものであった。