常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第二章 学校教育の発足

第三節 学校教育の発展と地域文化

「常総キリスト教界の開拓者」と称される草間碩は、幕末安政元年(一八五四)、川又地区の草間家に生まれた。伊奈半十郎の谷原三万石の開墾にあたって先頭名主のひとりであった草間内蔵之助の家系に連なる名門の出でありながら、碩の生まれた頃の同家は、必ずしも順調ではなかった。碩が多感な少年時代をすごし、さらに成人に達した時代は、丁度日本が明治維新を経過し自由民権の主張が叫ばれた明治一〇年代までにあたっていた。この時期になると、階層や門地にとらわれない個人の自由な発言や行動が次第に社会の表舞台に出て来るようになった。
 明治一四年当時、草間碩は結婚して戸長役場の書記をしていたが、ある日ふとしたことから、妻の実家(丸山の福田家)でキリスト教に関する小さな書物を手にしたのであった。何気なく読み進むうち、次第に心魅かれるものを感じ、やがてそこに書かれた神の存在を信ずる道を模索するようになった。
 しかし碩がキリスト教に真に触れることが出来たのには、水海道に住む友人塚田柳斉の存在があった。塚田は小学校の教員で漢学者でもあったが、同時にキリスト教にも深い造詣を存しており、彼自身、筐底に漢訳の聖書を遺していた程の人物であった。碩が塚田の助言に従いその道の教えを、一定の儀式の下に真に聴く機会を得たのは明治一八年のことであった。塚田の要請で青山神学校マクレー博士を介して同校学生二名が水海道を訪れ石崎旅館で説教の機会をもつことになったからである。参加者は、碩と塚田、それに草間記左衛門、信太十三の四人であった。さらにその年、千葉県安食のメソジスト教会からも牧師が来水し、秋場桂園や増田為吉もキリスト教の教えを傾聴することになる。草間碩はこの過程で入信し公然と布教活動を始めたため、戸長役場書記を免ぜられる。ここで彼は一念発起して東京の神学校の試験に挑み、入学を許される。
 

常総地方キリスト教の先駆者 草間碩

 一方、明治一九年から結城、岡田、豊田郡長に転じた尾崎逸足なる人物は熱心なキリスト者であった。かつて外務省の翻訳局にあり、万国博等の仕事に従事していた彼は外国の文物に憧れて入信したのであったが、故あってか、当時は郡長職として、宗道の地にあった。彼は郡役所を拠点とし、斡旋した外人宣教師を伴っては北は結城町から南は水海道町に出張し、布教につとめた。結城町では寺の影響力が強い土地柄で仲々布教に成功しなかったというが、水海道には既にその受容基盤があったのである。
 明治二〇年、夏休みで神学校から帰省中の碩が川又地区、水海道で布教を行い、某日、増田為吉宅で五木田伊右衛門や増田為吉、草間つた(碩の姪)ら数名が入信した。ここには尾崎郡長も同席したという。
 草間碩は明治二一年から川又に安食教会川又伝道所を開き、旧来からの古い観念が色濃く残るこの村で、伝導師として、仏教徒らの排斥運動に抗しつつ、約一二年間その布教に努めた。この中で多くの信者を得て、仏教徒とも互いの存在を認め合う所まで発展させていった。明治三二年、碩は再び神学校にはいり、牧師の資格を得て、卒業後は千葉、愛知、福井県の教会に派遣され、その地で布教、伝導にあたった。この間川又教会は姪のつたと、彼女の夫で勧士の草間力之助の経営する所となり、やがて水海道に移り、水海道メソジスト教会となり、存続することとなった。