常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第二章 学校教育の発足

第一節 発足時の小学校

それでは教師の養成はどのように進められたのであろうか。一例として、大生郷学校の教員となった福田貞助についてみてみよう。福田は、弘化元年(一八四四)の生まれで、若くして坂野耕雨の塾などで教養を身につけ、長ずるに及んで自らも塾を開くことになった文人である。彼は明治五年一〇月、選ばれて印旛県流山の共立学舎へ赴き、試験の上入学を許可された。翌一一月から同舎に寄宿して教授法の伝習を受け、翌年一月二七日、全ての課程が修了して、県令河瀬秀治から仮許状を受け帰村した。彼の流山滞在中に太陽暦にかわり、明治五年一二月三日が六年一月一日になったため、共立学舎で伝習を受けた期間は約六〇日という短期のものであった。教官には諏訪慎、渡辺営一、滝沢某等の名前が記され、この地方(印旛県第四大区一小区、のちに菅原、大花羽、豊岡三村を構成した旧岡田郡域)からは渡辺武助(号、華洲)、渡辺春回(海)それに福田の三人が入学している。帰郷後彼等三人は同年二月二十日、大輪村常行院を第一小区の学校として仮りに開校した。この学校には彼ら三人の教師のほか二人の事務係と、一六七人の就学児がおり、教則は「重モニ単語篇ノ諳誦及其書ノ書取、勧善訓蒙民間経済録」などであった。しかしこの学校は約一年で閉じ、七年一月から大生郷大生寺に芳梅校、飯沼称名院に開慶校、花島金光寺に花島校の三校が分置され、芳梅校、後の大生郷校には福田が赴任することとなった。ところで学制発足当時の学校の状態は、非常に混沌としており、福田の記録も大正期に、彼の経歴の一部として記されたもので、果たして全面的に信用して良いかどうかは分らないといった状況を示している。ただ、たとえば、第一二表に引用した、『文部省年報』から作成した『茨城県教育史』においてすら完全に正しく、実態にあっているとは言い難い所がある。そのひとつに、横曽根学校の存在がある。飯田信好稿「明治初期に於ける豊岡の教育」が引用している「中島清記録」も、先の福田の記録とほぼ一致しており、横曽根学校には全く言及していない。「中島清記録」の一部を見ると、
 
   余は其時(明治八年三月)開慶小学校という学校の雇教師となったのだ。此学校は今の豊岡村の一部飯沼
   にあって、弘経寺の盛の頃学頭寮と云ふ伽藍を借りて校舎としてあった。…中略…此処に横曽根館の渡
   辺利右衛門の婿養子の春海と云ふ人が教師をしていた。…中略…生徒は飯沼、横曽根、報恩寺、横曽根
   古新田、同新田の内桶道、笹塚新田、羽生の七部落から来ていた……
 
 とのべている。学制頒布後まもない開慶学校の存在、教師(渡辺春海)も福田の記録と一致しており、報恩寺地区もその中に含んでいる開慶学校が全く記録されていない『文部省年報』の方が疑わしい。ここでは、そうした考証は目的でないが、開設したばかりの学校は、建物、教員、生徒の就学状況等、困難な問題が山積していた。
 福田自身のその後の教師生活を追ってみると、明治七年二月から三月まで千葉町で、教則改正に伴なう伝習を都合二五日間受講している。また茨城県編入後の明治九年三月、土浦師範学校の入校試験に合格、四月から七月一八日迄の百余日間、教授法伝習を受け、下等小学師範学科卒業免状を取得した。そうした県による講習のほかにも、当時の小学校教師は、水海道の儒学者秋場桂園を招いて文章軌範の講義を受ける講習会を定期的に開くなど研修を積んだ。なおこの大生郷校は明治一〇年一〇月、学区の都合で廃止となり、生徒たちは古間木校、花島校、笹塚校へそれぞれ「机橙」をもって分配された。福田は古間木校に勤務し、渡辺嘉重、佐沢源松とともに教鞭をとることとなった。