常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第一章 明治期水海道の政治と社会

第二節 町村のしくみと運営

このように成立した町村の運営にあたっては、町村議会と町村長が中心となり、各町村の中心地に設置された町村役場に於て、諸般の事務が処理されることとなった。役場は戸籍や徴税、統計など国の末端事務を執る一方、町村議会の決定に基づく町村独自の土木や勧業、衛生、救助などの諸行政の事務を処理する自治制の要であった。しかし明治期の役場とは言っても、町村長、助役、収入役のほか、一、二名の書記と、同じく一、二名の使丁が詰めているに過ぎなかった。ここに、町村役場の様子を知ることが出来る、明治三四年時点での資料を掲げておこう(第八表)。
 
第8表 明治期町村役場概況(明治34年)
 役場位置町村長助 役収入役書   記町 村
議員数
 (人)
水海道町独 立長塚重明青木常飯塚孝助片岡勝,沼尻庄作
田中嘉兵衛,五木田直吉
18
大生村相野谷秋葉弥之助杉山泰助
(村議)
広瀬貞治   ?12
三妻村三 坂皆葉浦之助宮川周太郎堀越浜之助   ?
五箇村上 蛇山田久吉池田重郎平石嶋忠兵衛滝本仲充11
菅原村大生郷斉藤伊吉大嶋桝次戸塚万吉坂野庄一郎
坂野応助
10
大花羽村草間勝三郎
(村議)
石塚一太郎
(村議)
助役兼務程田治助12
豊岡村報恩寺星久馬小林健作渡辺銀蔵荒木茂十郎12
坂手村独 立藤啓助長塚平造
(村議)
岡野紋四郎菊田長吉12
内守谷村独 立新井芳之助細谷祝次郎
(村議)
助役兼務石塚実次郎12
菅生村独 立大滝藤兵衛12
出典)「茨城県職員録」(明治34年)より作成。なお菅生村の分は欠。


 
 町村には、選挙で選ばれた議員からなる議会が置かれた。議員数は人口によって決められ、一五〇〇~五〇〇〇人の町村は一二人であった。水海道町は明治三十年代になって人口が五〇〇〇人を越え、議員数は一八名にふえた。議員を選出する選挙人は、二五歳以上の一戸を構える男子でその町、村に二年以上住み、町村税を負担し、その町村内で地租を納めるか、または二円以上の直接国税を納める者という条件を満たした「公民」であった。そして選挙は等級選挙制で、納税額の多い者から、町、村税額の半分に達した者までを一級選挙人、残りを二級選挙人としそれぞれ半数ずつの議員を選出した。例えばある村に総数で三〇〇人の選挙人がいたとして、上位三〇人の村税納入額が全額の半数に達した場合、その村では三〇人の一級選挙人が六人の議員を、二七〇人の二級選挙人が残り六人の議員を選出することになった。ただし被選挙人は等級に限らず選出されたが、この制度は町村内の多額納税者たる有力者に非常に有利であった。なお、議員の任期は六年で、三年ごとに半数が改選された。
 町村長、助役は町村議会に於て選出され(町村公民中年齢三〇歳以上の者)、県知事の認可を必要とした。これらは名誉職とされ、給料ではなく報酬を受けた。また名誉職でなく有給の村長、助役をおくこともあったが、この場合は公民とは限らなかった。収入役は町村長の推せんで町村会が選任したが、これは四年任期の有給吏員であった。第八表には、助役と収入役を兼ている大花羽と内守谷の二村が見られるが、収入支出が少ないところで郡長の許可が得られた場合に認められる措置であった。
 戸長役場時代から専任の書記が置かれる場合が多かったが、町村制による役場の書記の位置と役割はますます重要になり、町村内の有力者あるいはその子弟がなる場合が多かった。彼等は次第に役場事務に習熟し、のちには三役や議員になり、運営の中心にすわっていった。
 ここで当時における町村吏員の待遇を、第八表と同じ明治三四年につき、見ておきたい。水海道町の場合は有給の町長で月額一七円、助役同じく一二円五〇銭、収入役一二円、書記として、同じく一一円、九円、八円、六円の者が各一人いた。また、附属員と呼ばれる専任一人(三三年月額五円五〇銭)と臨時職員、さらに月額五円の使丁が一名置かれた。三妻村では、名誉職の村長(報酬年額八四円)と助役(同七二円)に、さらに吏員の収入役(月額六円五〇銭)、書記(同五円五〇銭)、それに役場使丁二名(同三円と三円五〇銭)がおかれた。もう一例、明治三一年であるが菅生村の場合をみると、名誉職の助役(報酬年額七二円)に、吏員の収入役(代理者月額六円)、書記(月額六円)、使丁(月額三円五〇銭)がおり、村長は不在で助役が代理者を勤めていたのであろう。
 このように、町、村によって、役場の様子が違っており、待遇面でもかなり異なっていた。たとえば坂手村では明治二〇年代、名誉職村長の選出が出来ず、やむを得ず有給村長制にすると、今度はその選出をめぐって村会内部で意見が対立し、県庁や内務大臣にまでその裁定を仰ぐといった問題も起きている。名誉職とはいっても忙しいだけで、間尺に合わないと敬遠された例であった。町村長等の村役はいわゆる旦那衆といわれた名望家の仕事で、町村会も含めて開かれた自治制が実現するには、未だかなりの年月を要した。