常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第一章 明治期水海道の政治と社会

第一節 地方行政の出発と自由民権運動

自由と民権を求める運動の高まりの中で、各郡に配置された郡長と、戸長層との間に、各種の軋れきや矛盾が起った。そもそも郡長として赴任して来る者には薩長藩閥出身者が多く、地方の実情に疎い者ばかりであった。こうした中で、郡長公選を求める声が起るのは当然であり、県下でいち早く、明治一三年(一八八〇)一〇月、結城・岡田・豊田三郡の戸長ら四五名が連署して、時の茨城県令人見寧に対し、「上願書」を提出した。その趣旨は、たとえどんなに郡長として適当な人であっても、地域の実情を知らない人では民心をとらえられない、むしろ郡長の器ではないようであっても、風土人情に通し、慣習、風俗を熟知した地方の人物の方がふさわしい、まして三郡の中にはその任にふさわしい人がいるのであるから、県(令)においては、郡長の選任に当たって、よく考えて貰いたい、というものであった。
 この要求に対して、県は既定どおりの人物(吉田六蔵)を任命して、同年一一月一日付で、「願之趣難聞届候事」という通知をもって却下した。こうした措置に怒った戸長たちの中には村政の運営に責任がもてないとして戸長を辞する者が相ついだ。このため郡役所はその役割が果せず、全くお手上げ状態に陥ってしまった。当時の新聞にはつぎのように報じられている。
 
   ……戸長、郡書記等の職を辞するもの陸続跡を踵ぎ昨十二月下旬には戸長の職にあるもの十名又郡役所
   に出勤して事務を取るの書記及び雇吏共合せて僅かに五六名に過ぎざれば郡衙の事務は少しも運ばずし
   て人民は之れが為めに迷惑を受くること少なからず頻りに苦情を唱へて止まざれば……
                          (朝野新聞第二二〇三号、明治一四年一月二二日)
 
 この事態に臨んで県庁は、吉田郡長には向五〇日奉職したのち辞表を出させる旨約束をとりつけ、郡役所に辞表を提出した戸長、郡書記等を慰留しこの騒動は落着した。しかしこうした、主に藩閥官僚郡長に対する排斥運動は隣郡の真壁を始め、各地に飛火していった。
 このような在地の民主主義的要求と、国政や県政、教育や文化に関する主張とが結びついて、明治一四年の中頃から、政談演説会が再び燃え上っていく。
 同年六月一九日、水海道駅の米鉄楼で久しぶりに開かれた政談演説会の主なメンバー、演題はつぎのようなものである(『茨城日日新聞』明治一四年六月二九日)。
 
   ○松田秀軒(共益社の旨趣)○北条役三郎(良友を得る方)○長塚玄春(依頼心の弊害)
   ○塚田柳斉(教育の真味)○長沼梅仙(読書演説優劣の弁)○石原識明(教育の目的)○斎藤斐(貧富平均論)
   ○山中半(国の盛衰は教育による乎)○鈴木竹次(共益社と水駅人民の関係)
   ○小林秀三郎(水海道の開明を祝す)
 
 これらのメンバーのうち、松田、斎藤、小林の三人は、かつて斎藤が主催した守谷町改進社のメンバーであった。斎藤は北相馬郡地方きっての豪農で、明治七年頃に上京して、慶応義塾の福沢諭吉の門に学んだ啓蒙主義的インテリであり、周辺地域の青年たちに大きな影響力をもっていた。さらに、長塚玄春、塚田柳斉、長沼梅仙、北条役三郎といった人びとは、いずれも当時の小学校長、訓導であり、地方教育振興の第一線に立っていた指導者であった。尚、松田及び鈴木竹次の演題にある「共益社」という結社の実態については不明であるが、この演説会の内容が、全体として教育や文化についての演題が多いところをみると、啓蒙主義的な文化団体ではなかったかとも思われる。翌七月一六日の『茨城日日新聞』は、松田秀軒、小林秀三郎の両名が、「近村人民の卑屈なるを大に憂慮し自ら率先となりて三十名の有志者を募りて毎月一回つゝの演説会を開設したり…」と報道している。教育、文化を中心とした演説会を、定期的に開くことを申し合わせている訳であるが、その後の経過は、ほぼその申し合わせに近い状況を示していた。とくに水海道駅には小学校建設の気運が盛り上がっていた時だけに、教育についての関心は高かった。
 また同じグループによると思われる演説会の主催、弁士のメンバーが、隣接地域のかなり広い範囲で行動していた。その地域とは北相馬郡守谷、筑波郡板橋(現伊奈村)から猿島郡岩井、矢作方面(岩井市)にかけてであり、東京から招いた弁士が、何箇所も巡って、国政のかかえる課題について同様の訴えをしていた様子を知ることが出来る。しかし、明治一五年に入ると、水海道地方における演説会の開催を伝える資料は、あまり見当らなくなるが、隣の守谷では、改進党系の島田三郎らを招いて、相当大規模な演説会がもたれていた。水海道地方では、いよいよ学校建築が進み、その資金問題で、町内にはやや不穏な空気が漂い始めていた影響であろうか。