常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 下巻

第五編 近現代の水海道

第一章 明治期水海道の政治と社会

第一節 地方行政の出発と自由民権運動

県会議員や各地の民権政社による国会開設を求める運動が展開をみた、明治一三~一四年頃には、政治思想の宣伝、普及、学習の場として、政談演説会が多用された。大多数の人びとはこれまでなかった「新しいコミュニケーションの場」であるこの演説会で始めて、国や地方の政治や文化の実情に触れることが出来たから、民衆の関心は高まり、会場はいつも盛況であった。
 こうした演説会を主催したのは、各地に結成された政社や中央の政党支部に属した先進的な人びとであった。これらの人びとはおおむね近世からの村役人系譜の者が多く、村むらの指導者であった。これら主催者数名の演説に加えて、会のメーンとなったのは東京から招かれた弁士の演説であった。試みに、水海道地方で新聞紙上に掲載されたこれら演説会の状況をみると、つぎのような特徴がみられる(主催者や応援弁士などのメンバーから、周辺地域も含めてみた――後掲資料)。
 一例として明治一二年一一月岩井村に開設された喈鳴社は、県会議員中山三郎らが中心となった政社で、当日の演説者及び主な演題はつぎのとおりである。
 
   ○東京嚶鳴社社長 沼間守一(結合力の緊要)、同社員、堀口昇、角田直平
   ○同舟社社員 木内伊之介(日本人民幸福の説)
   ○水海道愛国社社員 松田秀軒(天下に窃盗多きは果して是なる乎)
   ○喈鳴社社長 中山三郎(喈鳴社設立の旨趣)
 
 嚶鳴社の沼間は当代きっての民権派ジャーナリストであったが、こうした大物を招いた所に主催者の力のいれようが伝わってくる。周辺地に既に結成されていた宗道の同舟社と水海道愛国社からも喈鳴社設立に駆けつけたのであるが、水海道愛国社の実態については詳しくは判らない。代表者である松田秀軒は代々医者をつとめた家の二男に生まれ、当然医者になるべく漢方医の勉強を始めていたが、次第に、漢方医学をはなれ、家をあとにして東京へ出てしまう。東京では本橋朝倉等に入門し西洋医学を修業した。二年後父の怒りも解け帰郷したが、すぐ医者にはならず、漢籍などを講ずる塾を開いていた。民権運動がこの地にも漸く起ってきたのは、その頃であった。そのあたりの事情はつぎのように伝えられている。
 
   是時ニ当リ民権論盛ニ起ル君(松田秀軒)奮テ曰ク志士仁人苟モ安居スベカラズト乃チ同志相謀リ憂(愛か)
                           ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
   国社ヲ設ケ以テ政談演説会ヲ開キ専ラ民権論ヲ主張ス茨城県ニ演説会ノ起ル蓋シ此社ヲ以テ嚆矢トス時
 
   ニ明治十一年某月ナリ……
                              『茨城県医家列伝』(○印は原文のまゝ)
 
 この史料は、岩井や周辺地域はもちろん、茨城県下で最も早い時期の政談演説会の開催地が水海道であったこと、その主催者が松田秀軒であったことを示している。明治一一年某月とか、演説会の嚆矢、といった事実が厳密に正しいか否かはともかく、こうした評価が下されていた所をみると、松田秀軒が果した先進的役割には注目すべきものがあろう。
 しかし一般的には岩井村にみられた明治一二年後半頃から演説会は隆盛となった。そして翌明治一三年四月頃まで、水海道地方も非常に盛況をきわめたのである。国会開設を求める気運が全国的盛り上がりをみせ、東京を中心に活発な請願などが展開されると、これに恐れをなした政府は、集会条例を発して政治的スローガンを掲げた運動の弾圧にのり出す。水海道地方では、こうした動きに抗しきれず、演説会は一時沈滞してしまう。しかし政治運動が全く鎮火してしまった訳ではなく、さまざまな民主主義を求める声がつぎつぎに起っていく。
 なお、明治一二年頃、水海道地方では、のちに自由党員となる飯田新右衛門(真瀬)や渡辺武助(号華洲、花島)らが「刑法研究会」を発足させ、政治活動も行った(富村著『常総文化史年表』)とあるが、こうした運動は、各地に簇生していたものと思われる。