常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第五章 水海道の文化

第七節 伝承

豊岡町にある浄土宗の巨刹弘経寺には有名な千姫の墓がある。千姫は慶長二年(一五九七)四月二日、京都の伏見で生まれた。父は徳川二代将軍秀忠・母は織田信長の妹お市の方の第三女阿江与という。かがやかしい出生であるが、幼少のころ既に政略結婚の犠牲になって大坂城に入り豊臣秀頼の妻となった。
 ところが豊臣・徳川両家の不和という事態を迎えて大坂夏の陣(一六一五)となりこれを境に悲劇の渦中の人となった。このとき落城寸前の大坂城中から姫を救出した武将が坂崎出羽守成正で、成正は城中の千姫救出に成功したらこれを妻に与えるという家康との約束に従ったのである。
 こうして千姫は猛火の中から坂崎の働きで脱出することが出来たが、こうなると千姫は祖父家康が坂崎に与えた結婚の約束に従う気持は毛頭もなく、当時美男の噂の高かった本多忠刻に嫁してしまった。そこで坂崎は家康の違約と千姫の薄情を恨んで憤死した。その怨念によるものか姫の夫忠刻も寛永三年(一六二六)三〇歳で病死した。この時千姫二九歳、以来賄料一万石を受けて世にとり残されたこの若き未亡人千姫にはとかくあらぬ淫蕩の噂がつきまとっていたという伝えがある。
 例えば有名な「吉田通れば……」にしても、もともとは東海道吉田の宿の遊女をうたった俗謡が千姫に転嫁されたもので、たまたま千姫がその宿老吉田修理之介の屋敷に籠っていた一時期があったことから誤った風説が流れたものであろう。男を手許に引き入れ、飽きればこれを殺害して、次々と相手を変えてゆく――こうなると主人公が徳川の美姫だけに、太平の世に刺激を求める江戸庶民にとってはこの無類の女性を最高の話題としてもてはやしたことであろう。しかしこれらは全くのいわれなき巷説で真実は夫の忠刻の死後は無常を感じて剃髪し専ら亡夫の菩提を弔って婦道を全うしたのである。弘経寺と千姫とのかかわりは、千姫が同寺第一〇世の了学上人の法談を好んで、これに帰依して得度したという事情による。
 千姫が波瀾に富んだ七〇年の生涯を江戸城中に閉じたのは寛文七年(一六六六)のことで、その住居の竹橋御殿の一部が弘経寺へ移された。この移築がまたこの地方に弘経寺の「血天井」説を残した。