常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第四章 交通と商業の発達

第一節 交通機関と町

寛永年間(一六二四~四三)の鬼怒川開削によって鬼怒川が直接利根川に通ずるようになってからは、鬼怒川は利根水系の一つとして急速に水上輸送が発達した。そこで水運を利用するため、貨物の集散に関する業務を取扱う問屋が生じ、その業者が貨物を積卸しする場所を河岸(かし)といい、河岸は河川沿岸の各所に設けられた。
 元禄三年(一六九〇)、「関八州伊豆駿河国廻米津出湊浦々河岸道法並運賃書付」(「徳川禁令考」)によれば、利根川水系を中心に八〇余の河岸が散在し、そのうち鬼怒川筋には一五か所(市域では水海道・中妻)あったことが知られている。その後河岸は年々増加し、『読史備要』によれば、鬼怒川上流阿久津河岸(栃木県河内郡)以下新宿河岸まで二三か所が挙げられ、元禄九年(一六九六)の「川船御年貢督促廻状」には市域の三坂河岸、内守谷玉台河岸の名が見える。
 元禄時代水海道村には、一三艘の高瀬船があったことが当時の御用留にみえ、また、正徳四年(一七一四)の記録には一五艘に増え河岸隆盛の一端を示しているが、船持、問屋の実態は河岸史料散逸のために今のところ明らかにされていない。
 川船は、下利根川、霞ケ浦で航行した一〇〇〇俵(一俵=四斗)以上積載できる高瀬船から百俵積前後の高瀬船まで大小さまざまあり、水深川幅など川の状況によって使われており、鬼怒川筋では二五〇俵から三〇〇俵積みの高瀬船、三〇俵から一五〇俵の積載能力のある部賀(べか)船、三〇俵未満の小鵜飼船等が使用された記録がある。
 
元禄期鬼怒川筋河岸表
 河 岸 名里数運賃前運賃比百姓負
担運賃
分厘分厘
久保田河岸453 9 - 41 0 
平 方 〃 413 6 - 41 3 
高 崎 〃 413 0 - 42 0 
野 爪 〃 403 5 - 51 0 
宗 道 〃 363 1 - 9 0 
中 妻 〃 343 0 - 1 5 
水海道 〃 332 9 -11 3 
新 宿 〃 322 8 - 21 3 
川名登著『関東に於ける河川運輸機構の成立』より作成


 
 上の表は、元禄三年、従来の運賃不統一を是正するため、幕府が河岸吟味を通じて決定した運賃のうち水海道河岸周辺を抜粋したものであるが、水海道を例にとると、水海道から江戸までの距離三三里(約一三二キロ)、運賃米一〇〇石につき三石二斗(領主側負担二石九斗、百姓側負担三斗)が問屋船持の受け取る運賃であった。これらは御城米・年貢米の公荷物輸送でいわゆる領主支配の機構に規制された過程での水運であったが、江戸中期以降、特に一般商荷物を取り扱うようになると、やがて河岸は地域経済の中心基地となって発展することになった。
 

利根川水系の河岸

 江戸時代、市域の河岸問屋がどのような荷物を扱い、また、河岸は在方農村にどのような影響を与えたか具体的史料が散逸したため不明であることは前述したが、『野田市史近世資料集』及び『柏市史資料集』に明治初期の利根・鬼怒川筋河岸問屋仲間の儀定書が収載されているので水海道市域に関連する部分を引用してみよう。
 
   「我等株式之儀者、往古株請致し候節大木川(ママ)岸より三坂河岸迄之間、水海道組と相唱ひ都合拾三
  川岸組合ニ有之、従来無難ニ永続罷在候処、近年川縁村々不人気猥ニ相成無株之場所ニ而荷物請払候もの
  有之、就而者今般組合一同集評之上規定取極…(中略)…依而布施、瀬戸、戸頭右三岸まで一同遂相談処…
  (中略)…今般布施外弐河岸差かひ都合拾六川岸之組合ニ取極候処実正也」
 
 この儀定書には、三坂河岸問屋藤左衛門(石塚)、中妻河岸清右衛門(落合)、内守谷水ケ砂河岸庄五郎(鈴木)等が名を連ね、水海道河岸では、宗右衛門(五木田)、利兵衛(鍵屋)、喜右衛門(土井)、作右衛門(荒井)、嘉兵衛(釡屋)、沢右衛門(不明)等が連印している。この中には、会津藩の廻米を扱った宗右衛門、また、「鬼怒川の水尽くるとも喜右衛門の富は尽くることをしらぬ」といわれた大富豪もいた。さらに「再儀定書」には河岸扱いの細かい物品にいたるまで運賃が定められ、これによって利根・鬼怒川筋にどのような物資が流通したかわかるが、その中で主なものを挙げてみると、米(藩米・町米)、〆粕、干鰯、塩、炭、槇木、藍玉、(葉)、実綿、油、油粕、酒、醬油、茶、塗物等その他日用品の種々雑多に及んでいる。特に〆粕、干鰯等の金肥は銚子から境河岸を経て飯沼新田に開発と同時に大量に入荷されたといわれている。また、筑波郡地方の米産地からの物資が小貝川筋から水海道渕頭の河岸へ「付越」され、鬼怒川舟戸河岸で積み替えられ江戸に輸送された文書ものこされている。
 以上のように水海道には多くの富商や有力な問屋(回漕業者)、それに自家用の船舶をもった富農らがいずれもこの河岸を利用し、この地を中心にして、また、中継地として物資の交流がさかんに行われたので、前代における商業集落からさらに商業都市的様相を呈するまでに発展し、したがってその商業圏は水海道を中心にして、遠く現在の結城、筑波、猿島の各郡にわたり、地方経済の枢要な拠点として位置づけられるようになったのである。