常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第三章 農業技術の発達と生産の向上

第二節 新田開発と用水の整備

坂手町江島より西方菅生町平松に通ずる一筋の道路がある。この道路をたどって平松にいたる途中、坂手の高台を下ってさらに菅生の高台に上る間、道路の両側にやや広く開けている水田がある。このあたりの字名を小谷沼といい現在は菅生町に属している。小谷沼の地はその名のとおり、むかしは漫々たる水をたたえた沼であった。そしてこの沼の縁辺に接する菅生、大塚戸、坂手、内守谷の四か村が入会(いりあい)沼としてこれを共同で利用していた。したがって沼の水を利用する水利、また、沼に生息する鳥や魚を採る狩猟や漁撈などにも特に水利権、狩猟権等の収益権を設定せず、いずれも四か村談合の上で利用していたのである。ここで入会について少し述べることにするが、入会とは一定地域の住民が共同して利用することで、その対象となるものは山林、原野、水面などであった。入会は既に律令制の行われていた古代でも『山川藪沢ノ利ハ公私コレヲ共ニス』と規定され、その原則は中世以降、江戸時代にまで引きつがれ、入会地はすべて免租地として認められていた。
 さて、それはしばらく措き、天和三年(一六八三)のころは、このあたり一円は関宿藩領であった。ところがその年藩主久世重之は備中(現、岡山県)の庭瀬に移封されたので、そのあとを襲(つ)いで藩主となったのは、相模国から入封した牧野備前守成貞であった。そのころ関宿藩の所領は五万三〇〇〇石であったが、牧野氏が入封してから五年後の元禄元年(一六八八)に二万石の加増をうけ、併せて七万三〇〇〇石となった。ここで牧野氏は貞成の子成春の時代にいたり、鋭意領国の経営につとめる方針を定め、まず米の増産をはかるため、遊休荒蕪地の開墾や沼沢地の干拓などをすすめることになった。たまたま小谷沼干拓はその方針の下に、藩営事業として行われたものであるが、その時期は元禄一三年(一七〇〇)といわれている。このときの工事は坂手、内守谷両村の境界附近に一条の溝渠をうがち、その溝渠によって沼の滞水を鬼怒川に排出し、そこに新田をつくる計画ですすめたので、一応は成果を挙げることができ、米にして一二〇二石六斗七升八合六勺の収穫を見たというが、その後いくばくもなくして鬼怒川の河床があがり、小谷沼新田の排水が不可能になったため、新田はいつしか干拓以前のような沼の状態にもどってしまった。この干拓に関する史料は現在見ることはできないが、干拓失敗の話は伝承としてのこっている。
 
小谷沼新田開発高反別
村 名高入石高田畑合計
町 畝 歩 町 畝 歩 町 畝 歩 
大塚戸村 131.27714.59.252.23.1116.83.06
菅生村 275.74225.36.155.59.1930.96.04
内守谷村 501.51846.79.2312.59.1259.39.05
坂手村(294.141)96.77.19
 各村の「村明細帳」より作成。( )は推定石高


 
 牧野氏による小谷沼干拓事業は一時的には成功したものの、その後における保全管理が不充分であったことと、鬼怒川河床が高くなって排水が充分に行われなくなったことなどが原因になって、せっかく干拓した新田も荒廃に帰したが、そのときから約一〇〇年を経た享和三年(一八〇三)一月、内守谷村の名主作右衛門は小谷沼新田の回復を志し、次のような書状を代官山口彦三郎へ提出した(内守谷町坂巻家所蔵文書)。
 
    恐れながら書付を以って御届け申し上げ奉り候
   下総国相馬郡内守谷村名主作右衛門申し上げ奉り候。当村并びに坂手村、菅生村、大塚戸村四ケ村組合、
  小谷沼新田御開発起し返しの儀に付き、去る戌十一月中四ケ村惣代として坂手村より御支配中村八太夫様
  御役所へ御願い申し上げ候間、右願書写しをその節御届け申し上げ候処、右御役所にて来る亥の春御願い
  に罷り出で申すべき旨仰せ聞かされ候。これに依ってこの度当村、菅生村、坂手村一同中村八太夫様御役
  所へ御願いに罷り出で候間、此の段御届け申し上げ奉り候。以上。
    享和三亥年壬正月廿五日
                       下総国相馬郡内守谷村
                         名主 作右衛門
   山口彦三郎様
     御役所
 
 この書状の文意は、内守谷村、坂手村、菅生村、大塚戸村の四か村組合が、荒廃している小谷沼新田の起こし返し(回復)をすることにつき、去年(享和二年)一〇月中、四か村惣代として坂手村から領主中村八太夫へ願書を提出した。ところがそのとき中村家役所からは、来る亥年(享和三年)の春、改めて願書を出すようにといわれたので、このたび前記四か村一同で中村家役所へ罷りきることになった。それがため改めてお届けするものである。との意であるが、中村家役所へ出頭したことを、ことさらなにゆえに山口彦三郎の役所へ届け出なければならないのか、それについては坂手村、内守谷村、菅生村の大部分は御三卿の田安家をはじめとして旗本支配の相給領が多かったので、坂手村の領主中村八太夫に願書を提出するとともに、支配を委任されていた代官山口彦三郎にもその旨を届け出たのであろう。山口彦三郎は当時下総、常陸に散在していた天領の代官であった。
 こうして四か村共同で小谷沼新田の回復工事を願い出たが、それが許可になったのか、又は不許可になったか、もし許可になったとしたら工事はどのようにしてすすめられたのか、これに関する史料はまったく見られないので、その詳細を知ることができない。それにしても小谷沼新田は、さきに牧野氏の干拓によって既に入会権を失い、高請地に書き入れられていたから、その負担のため農民は苦しめられていたと思う。
 享和三年、四か村共同で出願した小谷沼新田起し返しの顚末は不明であるが、それからさらに六七年後の明治三年(一八七〇)にいたり、坂手村名主源右衛門、菅生村名主清左衛門は次のような書状をもって葛飾県に願い出た。
 
    下総国相馬郡小谷沼新田再開墾自普請願書
   恐れながら書き付けを以って願い上げ奉り候。
   当御支配所下総国相馬郡坂手村小前、村役人惣代名主弥右衛門、同国同郡菅生村名主清左衛門一同申し
  上げ奉り候。
   私ども両村外田安様御領分同国内守谷村、大塚戸村右四ケ村入会の沼地にて字小谷沼と唱え、此の反別
  弐百三町九反六畝四歩これあり、往古元禄十三辰年中、右四ケ村とも牧野備前守様御領分の節、右沼水鬼
  怒川落としの御仕法相立て、掘割り御普請成就の上、小谷沼新田の儀は残らず開発仰せつけられ、既にそ
  の節反別御改めの上、高千二百二石六斗七升八合六勺御高請け仕り、右反段に相成り、依って四ケ村の内
  それに新田持主どもは耕作いたし罷りあり候内、おいおい鬼怒川浅瀬に相成り、小谷沼新田落水差し滞り、
  已然(いぜん)のごとく大半沼地に罷り成り、空しく二百年余り亡地に相成りおり、田安様御分の儀は毎年
  高役銭のみ相勤め候趣き、私共両村の儀は同様高役銭並びに御年貢は御上納とも相勤め候儀にこれあり、
  村々必至(ひっし)と難渋仕り候得ども、右四ケ村の儀は在来御領の外これまで拾三給入会御知行にて、何
  分にも再開発示談行き届き難く、その他持主どもにおいても潰れ、退転いたし候者あまたこれあり、当時
  は村々厄介高に相成り候亡地もこれあり、旧来歎息まかりあり候由、なかんづく近年にいたりては鬼怒川
  出水相嵩(かさ)み、別して去る辰、巳両年の満水にては沼水多分に相湛(たた)え、沼付き六十(町か)田畑
  地にいたるまで水腐(くされ)いたし、村々一統窮迫難渋続き、昼夜種々工夫勘考まかりおり候うち、今般
  ありがたくも王政御一新の折柄にて、諸国御一般の新開発仰せ出だされ候趣き拝承し奉り候に付き、前書
  小谷沼新田再開発仕りたく、私共両村小前百姓村役人一同篤と相談の上、鬼怒川落口小切り新規落口宜し
  き場所掘り割り、自普請、所見立て御出願の儀決着仕り候間、右の趣き田安様御領分内守谷村、大塚戸村
  弐ケ村役人どもへ相談に及び候処、右弐ケ村の儀は小前村役人のうちにて、小谷沼亡地所持いたし候者又
  は所持いたさず候者どもは、相談区々(まち/\)にて更に決着仕らず候間、右の趣きをもって出訴し奉る
  べきと存じ候えども、右儀隣村役人同意の間柄もこれあり候間、当正月に相成り再応談判仕り候えども、
  右二ケ村の儀は領主御役所へ御届けの上、再開発連れ入れ仕るべき旨示談行き届き候。
   当正月十四日、右内守谷村役人並びに大塚戸村役人ども一同私ども同道出府いたし、神田本銀町壱丁目
  蓬屋嘉右衛門方へ同宿いたし、右弐ケ村役人どもより領主御役所へ御届け、否や承り候処、且つ田安様御
  領内の儀は当今御領高御引上げの御沙汰仰せ出され候儀にて、小谷沼再開発連れ入れの示談如何ようとも
  挨拶相成り難き旨申し聞かされ、これまで無益の諸入用等相費し、ほとんど当惑難渋仕り候間、余儀なく
  小谷沼の儀は私共両村役人ならびに小前、惣百姓五百軒余りにて、新請再開発自普請仰せ出されたく、御
  合給大久保佐渡守御分名主清左衛門一同にて絵図面相添え願い上げ奉り候間、何卒出格(しっかく)の御仁
  恤(じんじゅう)をもって場所御見分成し下しおかれ候上、再開発自普請仰せつけに成り下しおかれ候はば、
  沼べり本田並びに畑地にいたるまで、後年水災の愁(うれい)これなく、右沼開作仕り候沢米をもって、右
  両村の窮民どもへ相渡し候はば、金子よう永久の助成に相成るべく、且つは御国益の儀と存じ奉り候。
   尤も右検分遊ばされ候節、掘割り自普請所へ相掛り候田畑持ちどもへは、ひ潟(がた)沼地のうちより相
  当の替代田畑相渡し、いささかも迷惑相かけざるよう、再開発成就専一に心がけ出願奉り候間、幾重にも
  前願御憐察あらせられ、急速御聞済みになし下しおかれ候て、自普請の儀は両村小前百姓、人足にて引請
  け、日日出精いたし、当年の植えつけにつき御年貢御上納等奉ること口上いたし候間、右同普請仰せつけ
  られたく伏して願い上げ奉り候。
   明治三午年正月
                         当御支配所
                          下総国相馬郡坂手村
                           小前村役人惣代
                           名主 源右衛門
                          大久保佐渡守領内
                           菅生村同 惣代
                           名主 清左衛門
   葛飾県
     御役所(菅生小学校所蔵『菅生郷土誌』より)
 
 右の願書の要旨は、「元禄一三年に牧野備前守が干拓工事を行い、そのとき一二〇〇石余も収穫ある新田を開発したが、その後、鬼怒川の河床が浅瀬になり、新田に水がたまってまたもとの沼地に返った。それから二〇〇年余はまったく荒地のままであったが、年貢だけは課せられていたので、村々は非常に困っていた。そこで坂手、菅生、内守谷、大塚戸の四か村で相談の上、再開発を企画したか、その四か村には細分された領主が一三家もあるので、容易に相談がまとまらなかった。ところがこのたび、王政一新の世となり、新政府から新田開発奨励の布令がだされたので、それを機会に再開発を行うべく、まず坂手、菅生の両村で相談し、この件について内守谷、大塚戸の両村へ交渉をしたら、両村にはまたそれぞれ内部事情があり、ただちにこれに応ずることができないといわれた。それでも隣村のことであると思い、ことしの一月再度交渉したが、ついに決着を見ることができなかった。
 それでこんどは四か村の村役人が打ち揃って東京に赴き、内守谷、大塚戸両村の役人が領主である田安中納言家へ再開発の件について届け出でた。すると田安家では、近いうちに田安家の領地は新政府へ召し上げられるかも知れないので、坂手、菅生の両村と一緒に開発することは考えなければならないといわれた。それで余儀なく私ども坂手、菅生の両村が、費用自弁で再開発を行いたいと思う。よってその許可を与えられたい。もし許可になって再開発をすれば、沼べり本田、畑地とも将来水災もなく、米も多量に収穫され、その余り米をもって窮民に配布すれば、政府が窮民扶助のために支出する金子を仰がなくとも間にあい、国の利益にもなることである。また、工事にかかった費用は、その負担者に相当の田畑を替地として与え、少しも政府の迷惑になるようなことはせず、なお、私共は開発成就を専一に心がけ、努力をはらうにつき、再開発の許可を与えられんことを願うものである。」との意である。
 この願書を受けつけた葛飾県庁ではさっそく四か村の村役人を呼び出し、再開発に関する工事計画を樹立するために実地検分を指示し、一月二〇日を期してこれを実施させることにした。ところがこの日大塚戸、内守谷両村の村役人は、領主が代わったため多忙であることを理由に来集しなかった。それでさらに二二日に延期することになったが、この日もまた内守谷村の名主五郎右衛門だけが一人来たので、やむ得なく集まった三村の村役人で土地の高低を測り、排水口の設置場所などをきめ、改めて県庁へ検分を願い出ることを内守谷、大塚戸の両村へ申し入れた。すると両村はこの件については県庁において相談しようというので、坂手、菅生の両村もこれを了承し、やがて幾日か日を隔てて県庁へ出頭すると、内守谷、大塚戸両村の村役人は、今日県庁へ出頭したのは再開発の件ではなく、この件については、帰村の上小前一同と相談の上でなければ決定できないといって問題を回避した。そこで坂手、菅生両村の村役人は、内守谷、大塚戸両村の態度に不満をもったが、このように両村を相手にしていては、再開発の事業もいつ行われるか計りがたい。しかしながら現在の荒地をこのまま放置することもできないので、小谷沼再開発の件はぜひとも私方へ許可を与えられたしと、坂手、菅生両村の名主連名で重ねて出頭した。
 小谷沼新田再開発にはこうしたいきさつがあり、その後の経過については史料がないので明らかではないが、結局は内守谷、大塚戸の両村もこれに協力をしたらしく、明治四年(一八七一)にいたり、四か村共同で新たに排水路を開削して菅生沼に落口を設け、現在の小谷沼新田を生むにいたったのである。また、その時開削した排水路は、いま東仁連川としてその効用をなしている。