常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第二章 幕藩支配と農村

第二節 支配関係の変遷

ここで幕府の封地政策と近世封建領主についていささか述べることにしよう。
徳川氏がいまだ関東の一大名であったころ、その領国において一万石以上の知行を与えられた家臣は、その後、徳川氏が政権を掌握して幕府を開き、中央集権的国家として幕藩体制が確立した時期において諸侯に列し、新たに徳川氏に従属した中世以降の守護大名や諸国大名とともに近世大名となったが、それ以下の者はいわゆる直参旗本と称し、その旗本のうち概ね五〇〇石以上の者は知行として各地に所領を与えられた。そして知行を与えられた者はその知行地に対しては大名と同じように、支配権をも認められることになるが、特別に高禄を食む旗本以外、大部分の者は幕府の代官にその支配権を委任し、ただ公定の率による年貢のみを徴収していた。しかし、支配権を代官に委任したとはいえ、全面的にこれを委任したのではなく、知行地内に紛争がおこったとき、または他領との間に係争問題が生じたときなどは、知行地の領民は支配を委任された代官を越えて、直接知行領主たる旗本に提訴することもあった。
 徳川氏の所領は関ケ原役後急速に増大した。それはこの役で西軍に味方した大名の領地を没収又は減封し、その中から徳川氏に味方をして功労のあった大名に恩賞として与えた分を差し引き、その余りはすべて徳川氏の所領となったからである。徳川氏が一大名であった時代は、関東一円と徳川氏発祥の地である三河国の所領を加えて二〇〇万石といわれていたが、関ケ原戦後約四〇〇万石にふくれあがり、その後、さらに大名の改易、新田の開発等によってその所領は増大の一途をたどり、元禄期には六八〇万石ないし七〇〇万石に達した。そのうち約二六〇万石ないし二八〇万石が旗本知行所で、その分布はほとんど全国的にまたがっていた。しかし、それが多く集中していたのは武蔵、相模、上総、下総など江戸を囲む諸国であるが、その理由は初め徳川氏が関東入府のとき、居城たる江戸を防衛するため、一朝有事の場合、一騎駈けをもって、ただちに江戸に馳せ参ずることのできる家臣を、その周辺に配置したことによるものである。それがその後、旗本は番方、役方ともいわれて幕政に参与する旗本はもちろん、無役の者まで江戸城下に定住するようになったため、在地知行領主としての本質は失われたが、知行所のみはそのままであったので、ついにその支配権をも代官に委任するようになったのである。
 また、幕府は関東地方に多くの譜代大名を配置し、その牙城としての防衛任務を負わせたことはよく人の知るところである。いま水海道市を中心にして、その四〇キロメートル(約一〇里)圏内に封ぜられた大名とその廃藩年を挙げれば次のとおりである。
 
封地諸 侯 名最終石高廃藩年
小張松下、松平一五、〇〇〇天和 二
北條佐久間一〇、〇〇〇天和 元
谷田部細川一六、三〇〇維新後
下館水谷、松平、増山 井上、黒田、石川二〇、〇〇〇維新後
下妻多賀谷、徳川、松平(1) 松平、井上一〇、〇〇〇維新後
土浦松平、西尾、土屋、松平、土屋九五、〇〇〇維新後
関宿松平、松平、小笠原 北條、牧野、板倉 久世、久世四八、〇〇〇維新後
山崎岡部一二、〇〇〇慶長一四
大輪土井一〇、〇〇〇延宝 五
山川松平、水野三五、〇〇〇寛永一二
結城結城、水野一七、〇〇〇維新後
守谷土岐、掘田 酒井、土岐一〇、〇〇〇寛永 四


 
 この表で見るとおり、水海道市周辺の諸藩で明治四年(一八七一)の廃藩置県まで存続していたのは谷田部、下館、下妻、土浦、結城、関宿の六藩で、その余の諸藩は江戸前期より中期にかけて転封などのため廃藩となり、その領地は天領又は旗本知行所に切り替えられた。そのなかでも特に現在の水海道市域に属する大輪(旧大花羽村大字大輪)は、前述したとおり(第一節近世村の成立大花羽地区参照)一万石を削り五〇〇〇石の旗本として存続したのちも、その知行所が多く水海道市域にあったことは特異な例である。水海道市周辺における大名支配の変遷は以上のようなものであったが、この大名のうち現在の水海道市域に領地をもっていたのが確実であったのは、大輪に藩地をもった土井氏だけで、それにほぼ確実であったと思われるのは下妻の多賀谷氏だけである。