常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第二章 幕藩支配と農村

第一節 近世村落の成立

水海道が町になったのは明治二二年四月、市制及び町村制が実施されてからのことで、それ以前は明治四年から「駅」と呼ばれていた。近世における水海道村の成立は、まず現在の元町(台宿)にはじまったといわれている。台とも呼ばれたように鬼怒川左岸における数少ない洪積台地で、戦国末期のころ在地豪族田村弾正がこの附近に居館を構えたので、その居館を中心に集落が生まれ、それが近世になってから統合発展して、いわゆる豪族屋敷型の村落ができたのである。水海道秋場家文書に、「当村之儀寛永七年伊奈備前検地ニ而御座候、其節より居屋敷宿割ニ罷有、上宿中宿新町と申南北江一続ニ而御座候」とあり当時の村の様子を伝えている。ところが寛文年間(一六六一―七二)鬼怒川が大氾濫したため台宿一帯の地に大きな地崩れをおこし、将来村としての発展を期しがたしと見た時の領主土井能登守利房は、河川の改修を通じて、台宿の住民をそのころようやく新田に開発され、「畑の内」と呼ばれていた現在の宝町にうつし、以来そこを宝洞宿(ほうどうしゅく)と称したのがはじまりで、それよりこの地が水海道村の中心地となり、それとともに鬼怒川開削による河川交通の発達は、水海道がその地理的条件に適しているのと相まってここに河津が設けられ、それによって物資の集散地となったため、水海道には期せずして商業がおこり、自然に宝洞宿を中心に都市的様相を示すにいたった。現在の栄町(横町)、本町(新町)、諏訪町(五本榎)、渕頭町、元町(台町)などはもっともその影響をうけた地域であり、やや遠くはなれた橋本、森下、天満(峯下)、高野、山田各町などもその外郭農村として発展したところである。