常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第四編 近世の水海道地方

第一章 徳川幕府と関東経営

第二節 幕府の北総経営と伊奈氏

伊奈氏三世二代にわたる利根川改修事業、新田開発事業もようやくすすみ、その効果を挙げつつあるかに見えたが、さらに一方では小貝川氾濫という大きな災害をもたらす問題が、関東郡代伊奈忠治の上にのしかかってきた。
 小貝川は水源を下野国(栃木県)の山地に発し、南流して現在の茨城県協和町にいたり、さらに下って概ね現在の下妻市附近において鬼怒川と併行して流れ、左岸に筑波、右岸に結城、北相馬二郡の境界をなし、途中現在の筑波郡谷和原村杉下において鬼怒川を合流し、さらに南流して現在の取手市戸田井において利根川に注いでいた。ところが小貝川左岸地帯はさきに述べたとおり、一望さえぎるものなき平坦地であるのに対し、その右岸、特に小貝、鬼怒両川の合流点たる杉下以南は概ね台地がつながり、自然の水防をなしていた。それにくらべて左岸地帯は、江戸時代の初期にはいまだ堤防の構築も見られなかったので、一朝大雨沛然たる場合、小貝川に比べて長い流域をもつ鬼怒川の水を、鬼怒川より体質の弱い小貝川にうけることはきわめて困難であった。そのため小貝川左岸はしばしば河川の氾濫によって災害をうけることが多く、せっかく新田として開発した現在の谷和原、伊奈両村の蒙る被害はまた莫大なものであった。そこで忠治はその災害を防ぐため、ここに鬼怒川河道の附替えを必要とし、父忠次の没後十数年にしてその事業を起こすことにしたのである。
 鬼怒川の開削は、水海道及びその周辺においては大きな意義をもつものであった。すなわち、この新疏開削の結果、鬼怒川が利根川に直結したことによって、にわかに水路による運輸交通の便がひらけ、また、その交通の発達にともなって中央の文化が導入され、期せずして水海道を中心とした一つの文化圏を生むにいたった。さらに水運は文化の交流をうながしたばかりではなく、それがもたらした経済的所産として鬼怒川流域に多くの河岸(かし)が設けられ、しかもその河岸は地方における流通経済を促進し、やがて地場産業の振興を見るにいたるなど、まことに民衆生活の上に少からぬ影響を与えたものである。
 このように鬼怒川の開削は関東郡代伊奈忠治をはじめ、地元住民にとっても画期的な一大事業であり、かつ大きな意義をもったものであった。しかるにこの工事に関する地方(じかた)の史料はまったく見られず、わずかに口碑伝承のたぐいがのこっているだけで、しかもその口碑伝承にしてもすべて片言隻句で、工事そのものの経過を明らかにすることはできない。したがって工事の着手時期についても諸説まちまちで、あるいは天和年間(一六一五―二三)といい、また、寛永年間(一六二四―四三)といい、さらに寛文年間(一六六一)説、それより数十年ものちにあたる正徳年間(一七一一―一五)説等があり、いまだいずれを定説とすることもできない。
 天和年間説は富村登著『水海道郷土史談』に『福岡堰沿革誌』及び『猿島郡郷土大観』を引用し、さらに内守谷村の古老坂巻作右衛門の談話を併せてその説を立てたものと思われる。また、寛文年間説は『利根川図志』に挿入されている絵図に鬼怒川を表示し、それに「寛文中新疏」と註を加えてあるので、それを出典としたものらしく、さらに正徳年間説はただ『大日本地名辞典』にその記載があるのみで、もとよりそれを史料的に証明したものではない。ところが最近になって守谷町板戸井の寺田芳蔵氏所蔵文書のうちから、「御地頭様御持年間」及び同町大山の笠見統治氏所蔵の「由緒書」という二点の史料が発見された。それによると御地頭様御持年間には、「新鬼怒川掘割、寛永元甲子年也」とあり、由緒書には、「寛永二丑年、高かけ(現、谷和原村小絹にある屎尿(しにょう)処理場附近)より細代村へ新堤をつき留め、新川を掘り、きぬ川を新川へまわし、丑、寅、卯三年ほり、川成就いたし候由」とある。つまり着工の時期を寛永元年といい、また、同二年であると二つの史料は伝えている。この史料は鬼怒川開削に関するものとしてはもっとも新しく発見されたもので、従来着工時期については定説がなかったのに対し、何か示唆するものがあるように思われる。しかし、由緒書は享保一六年(一七二九)に、また、御地頭様御持年間は寛保三年(一七四三)以降につくられたもので、いずれも寛永初年からは一〇〇余年を経過しているので、その信憑性についてはかならずしも良質な史料とはいえない。
 殊に由緒書には、鬼怒川開削工事は、着工した丑、寅、卯のわずか三年間で「川成就いたし候由」と伝えているが、このとき開削した新河道は現在の谷和原村細代から守谷町大木にいたる約六・五キロの間で、この地帯には水海道市内守谷町長之入、鹿小路及び守谷町大山、板戸井、大木にわたるおおむね一七ないし二一メートルの標高をもつ台地がつらなり、その間にところどころ低湿地もあった。開削工事はその地形を利用してすすめられたと思われるが、当時なお土木機器もなく、ひたすら人力のみにたよって行われ作業では、到底三年の短日月で完成したとは思われない。したがって由緒書にいわれている「丑、寅、卯三年ほり、川成就いたし候由」という説はうたがわしいものである。
 さて、それはしばらく措き、伊奈忠治の事業たる鬼怒川の開削工事が完成したのは、これまたその起工の時期とともに明らかではないが、おそらくは寛永一〇年(一六三三)以後のことであろう。この工事の完成によっていままでしばしば氾濫していた小貝川もようやくおさまり、ここにはじめて谷原三万石の沃野は開発の実を結ぶにいたったのである。
 
  
  (1) 伊奈備前守忠次の略称
  (2) 水海道市上蛇町。近世の上蛇村
  (3) 伊奈半十郎の略称