常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第五章 戦国時代の常総

第二節 常総諸豪族の攻防

天正五年八月一六日、多賀谷の先陣白井勢は新井原(新宿)に陣して筒戸城に攻めかかった。北條氏堯は大道寺駿河守を将とし、本庄・熊谷・米田・江戸・笠井(葛西)・中山・秩父・平山ら武蔵勢と地元の本多氏を属させ白井勢と乱戦となった。夕方になり引き分けたが、夜になると三経は秋場から福岡勢が押し寄せたことの注進をうけた。
 多賀谷勢は白井を殿(しんがり)として筒戸・新宿より水海道へ引き返した。夜戦の名残りである寺社焼失の跡をながめた。夜明けごろ、峰下天神前に戻ると既に友軍は大輪方面に逃れ、かわって義長勢があらわれた。これとしばし戦っているうちに白井の殿軍が着したが、横瀬・海老原・小川・松田・吉田・大山・直井・中島・野口・石川らにはばまれ多賀谷勢は遂に敗北した。重経が坂野監物・塚田・小口を従え退くの途、横曽根で追っかけて来た稲並(井)左衛門主従三騎と監物は切り結び、太刀は折れたが敵の刀を奪って首をあげている。これを賞して重経は身に帯びていた六字の太刀を与えた。弘経寺(一説安楽寺)に引きあげ籠っていると、一番に月岡と唯越らが乗り込んで来て多賀谷信濃と戦った。二番に由良・菅谷ら替わって多賀谷淡路と戦う。三番に岡見中務が重経と渡り合ったが三戦とも引分けとなる。やがて搦め手から進んで来た土岐伊予は大門に火をかけ下妻勢を狼狽混乱させたが、にわかに大雷雨があって火を鎮めている。下妻勢を弘経寺から追い出した北條氏直(実は弟氏堯)は寺域が陣場として要害なのをみて寺を焼いている。この際、檀誉拵把は勅願所勅額綸旨や什物等を荷負うて下妻へ逃れた。
 多賀谷重経は弘経寺や大輪城から引きあげて花島へ去り、さらに村岡ケ原(八千代町)へ落ちて円福寺へ向かった。白井全洞は石毛勢・豊田勢を率い小松ケ原で追跡の氏堯勢を鉄砲で迎撃したが海老原・木村・横瀬・直井・飯島らが突進して来たので円福寺に逃げ込んだ。重経は円福寺から下妻城に落ちた。
 氏堯・義長らは下妻へ進入しようとした矢先、織田信長が武田勝頼を長篠に破って東征するとの報が氏堯に達し、千葉頼胤が布川方面を襲うとの報は義長に届き、行方勢が蜂起したとのうわさが土岐氏にきこえた。
 おのおのは急に帰国することになった。氏政は山角下野を上京させて、今回の功を奏上し、岡見に従四位下中務少輔、栗林に従四位下下総守の官途口宣を戴いて来ている。
 戦敗側も尽力奮闘した将兵には宛行や感状を与えている。次は重経に属して戦った五家(水海道)の石塚彦三郎将監が条件付ではあるが堪忍分の恩賞をいただいている例である。
 
   石毛市河肥前内五貫文之所 堪忍分となして宛行候 一騎之走廻り油断すべからず 連々在所へ罷帰り
   候はゞ 返上申すべき者也 件の如し
    天正六年戊寅四月十九日 印文尊経(重経)
     石塚将監との
 
 石下で市河肥前の知行の内五貫文を食客待遇として与えるから騎馬侍として必ず油断なく勤めるべきである。毎日連続、五家館にばかりいたならば宛行を取り返すことにするとある。五家村の石塚氏が名に彦の字をつけていることは、花島の石塚左京家と同様で、同家の分家である。