常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第五章 戦国時代の常総

第二節 常総諸豪族の攻防

佐竹氏は東奔西走南侵北伐、憩うに暇(いとま)がない。天正元年(一五七三)七月、菅谷の宍倉城(出島)を降し、戸崎大膳の戸崎城(新治郡下大津)をとったが後北條氏が武蔵へ出兵したとの報を、関宿の簗田晴助からうけた。九月初めに簗田が公方や後北條氏に叛すると、佐竹義重が加勢し、簗田を援けることになった。後北條は関宿を攻めるが戦は長期に及んだ。天正二年の秋、佐竹は相馬方面を牽制すべく出発している。これを迎え撃って崩した高井民部(胤永)は北條氏直から賞されている。
 
   今度佐竹向其表相動処、防戦堅固故 早速敵退散心地好く 肝要至極に候 為其以使申候
   仍刀一包(かねなが)永並三種一荷進之候 委細可口上候 恐々謹言
    (天正二年)九月廿三日    氏直(花押)
   相馬民部太夫殿
 
 相馬民部太夫は高井民部胤永である。この戦には水海道絹西の郷士も働いたわけである。なお、越後の上杉輝虎(謙信)が関宿・幸島口(境)へ迫ろうとしているので、その対策を氏政は、守谷城主相馬治胤に申し送っている。
 
   越後の上杉勢が 幸島郡へ南下する由を聞いたが此方の陣営は無事である。遠くはなれたその方面は心
   配であるが こちらから出かけた軍勢は引返した。堅固な防戦が大切である 若し敵の動向がわかった
   ならば此方も用心する事になるが その場合は追って申送る。
     (天正二年)閏十一月三日  氏政(花押)
     相馬左近太夫殿
 
 かく氏政は案じているが、関宿は間もなく、栗橋城に拠った弟氏照に攻められ開城している。謙信が幸島郡に侵入したならば守谷城に向かう途中の水海道絹西の大塚戸城、菅生城の防備は実に大切であった。それゆえに両城は拡大強化されるものである。侵入を案じての氏政の申状であったが、その後間もなく閏一一月末関宿城は後北條氏の手に落ちたのであった。簗田氏没落し、一年たつと天正三年一〇月、豊田氏も滅んだ。この前後には国史上にも大衝撃があって名将が没したり、政変があったりする。元亀二年一〇月に北條氏康。天正元年四月に武田信玄。同六年三月一三日上杉謙信等が死に同六年足利義昭が信長に追われ室町幕府滅び、同一〇年閏一二月、古河公方足利義氏が没する等である。