常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第五章 戦国時代の常総

第一節 戦国の動乱

康正三年(一四五七)四月、山内氏は白井(上州群馬郡)五十子(武州)に拠り、扇谷持朝は河越城を、太田資清(道真)は岩槻城を、その子持資(道灌)は、江戸城を築き、古河公方に備えた。この道灌の子孫に当たる太田四郎、同五郎の兄弟は、戦国末の天正四年に、水海道大生郷城に籠って多賀谷氏の下妻勢と戦っている(「東国戦記実録」)。
 結城合戦に参加した染谷義次は落城とともに常州板橋城に遁れたが、宝徳元年(一四四九)成氏が鎌倉公方となると弓田城(岩井の弓田)に戻り、同じく参戦の小山氏の分流である児谷野氏は、大輪田館(三和町新和田)に帰り、同じく、逆井常宗は享徳三年(一四五四)逆井城(飯沼城)に帰り咲きをしている。これは公方成氏の指図によるのである(逆井氏系図)。左の三氏は青木城主(境町伏木)と共に武蔵・相模方面に、公方の命令によって藤原中務亟政行指揮の下に出陣している。これは、成氏が永享一〇年(一四三七)一一月一日、父持氏が三浦介時高の寝返りによって翌年二月一〇日、自殺したことへの報復であった。
 猿島勢は、相模の三浦之助住吉の新井城(三崎の荒井)を攻めたが鎌倉から両上杉らが三浦を援けに来たので引き返した。帰路、武州崎西郡渋江郷に討ち入り金宝山慶雲寺の鐘を奪取し、これを下総国上幸島郡穴太辺(あのべ)の星智寺に奉納している。この鐘は嘉慶元年(一三八七)一一月一四日の銘があり、次のような内容が刻まれている。
 
    大日本武蔵州崎西県渋江郷金重村金鳳山慶雲寺に遍く衆檀縁を募り、工に命じ大鐘を鋳、集る所殊
    勲、上は四恩に報し、下は三有に資し、法界群生倶に利益を霑す者なり。(以下銘略)
   開山石室叟善玫謹書(略)
 
 そして奪取後の追刻は左のとおりである。
 
    大檀那藤原中務亟政行
    慶雲禅寺住持比丘至光
    奉行小谷野重三郎左衛門尉季公
      青木 左近将監 朝貫
      染谷山城守修理助 義次
      逆井 尾張守沙弥 常宗
    下州上幸島郡穴辺 星智寺推鐘(開山住持略)
     享徳五年丙子七月十六日
 
 この年は実は康正二年(一四五六)である。鐘は後に天正元年(又は二年)、九月一四日、下妻勢に奪い去られている。四奉行の一人染谷義次の子孫、民部は天正年間、終始一貫して水海道の御(実)城の諸士と味方となり行動を共にしている。逆井常宗の祖先はかつて、法雲寺領となっていた逆井郷青鳥(大鳥)村の飯沼城城主であり、また横曽根(水海道市豊岡町)に法性寺を開山した聖冏(しょうげい)を招じて、浄土宗の寺院をおこしている。常宗は沙弥(しゃみ)であるから剃髪して仏門に入った武士であった。なお慶雲寺について附記すれば、金重村(埼玉県岩槻市)に永和元年(一三七五)石室(書道大家)が開山した寺で、のち近世(寛文年間)になって野火止(のびどめ)に移されて平林寺と改称している。
 長禄元年(一四五七)古河公方成氏の部将は千葉氏一族の内乱に乗じて、房総において活動している。関宿の会田家に次の文書がある。
 
   「前略…簗田成助は世喜宿(せきやど)(水海城より二年目関宿に移る)を築き、古河城の難儀の時は船に
   て乗附加勢し、古河との間の権現堂川にカキ上ゲ(後の栗橋城)あり、家来の木造氏を置き両城の助とな
   した。里見、印東両氏は房州に打入り、武田三河守、同右馬之助は上総に打入り、各々真里谷、庁南両
   城を取立て、馬加康胤は千葉胤直を討取り千葉城に打入り、土岐弾正に万(ま)木(喜)の城を取立る」
 
 将軍足利義政はこのような成氏の行動に対して豊田郡周辺の郷士に、成氏を攻撃するよう参陣を促している。
 
   「成氏を退治する事は、既に、勅旨の文書と天皇の御旗を遣わされた通りで、勅命は厳重に守るべきな
   のに、猶、御(味)方に馳参じない者は、天から下す誅罰は遁れることはできない。去る頃も早速、戦功
   をぬきんでたてるよう、仰せ下されたが、今に凶徒成氏に味方している事は、神仏のとがめをうけるこ
   とは遁れる事は出来ない。つまりは罪をおかす心もちをかへて、忠節を励めば感恩賞与がある
    文正元年(一四六六)六月三日
     結城七郎(氏広) とのへ
     小田太郎 とのへ」 (『結城市史』古代中世史料編)
 
 右の文書は結城、小田氏が従来古河公方の支持者であったことを明白にするが、これから先、忠節を尽くせば恩賞をも与えるという将軍側の懐柔政策の一つと考えられる。
 実際に結城の家臣のうちにも、将軍の内意に添うような者も出てきて、水谷氏は、この年の前後ともその主君の親戚小山持政を京都の幕府に服属させるに努力して成功し、次のように幕府から恩賞にあずかることになった。
 
   「関東の事、年末度々忠節の段、聞しめされおわんぬ 殊に今度小山下野守(持政)計略を以て御(味)方
   に参じ 戦功致すべし云々 尤神妙なり 弥々忠勤を励めば 恩賞あるべく候也
    文明三年五月三十日
     結城水谷掃部助とのへ」(『古河市史』古代中世編)