常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第四章 南北朝・室町時代の争乱と常総地方

第七節 古河公方足利政氏

政氏は永正一二年(一五一五)豊田郡の兵を率いる渡辺、羽生両氏、特に羽生氏は水海道兵を握っているが、上総国椎津城(市原郡)の高基党、真里谷氏を攻撃させ戦功があったのをみて次の感状を与えている。
 
    去ル十九日、椎津要害に於て 紛骨を抽んじ走廻の条神妙の至候弥(いよ/\)戦功を励むべきの状件
    の如し
    永正十二年九月三日                                政氏
     渡辺新兵衛尉殿
 
    去十九日於椎津要害抽紛骨走廻
    之条神妙至候弥可励戦功候(者)也
     九月十日  (政氏花押)
     羽生上総介様
 
 前記のように、永正九年に政氏は小山の祇園城に拠ったが、永正一三年(一五一六)一二月、円福寺(下妻近在今上村)に移り、高基との不和が再発したこととて、同一六年(一五一九)八月、両党は再び椎津城に戦い、今度は政氏党が敗北した。
 永正のころ、古河公方家ではしばしば政氏と高基の父子が不和となり、その両統は総州で衝突した。水海道絹西を持つ相馬氏も、横曽根の羽生氏や古間木の渡辺氏と共に政氏党として出陣した。次はそれを証する文書である(横曽根村羽生利右衛門所蔵(1))。
 
   徳誕(別名胤徳)蔵主死去無是非次第候 然者 相馬因幡守(胤広)無二励忠信候之節
   〓(横曽根の合字)之者共江加意見候は可簡要候 巨細安西右京亮(アリ)可申遺候謹言
    閏十一月廿一日     (政氏花押)
     羽生上総介様
 
 下総守相馬徳誕はなくなったことはぜひない。その子の因幡守胤広が、忠義を励んだ節、羽生氏が横曽根(〓)の従兵に相馬氏に協力するよう意見してくれたのは結構なことであると。足利政氏は、羽生氏にも感状を出しているのである。
 政氏は小山城を出て、円福寺にいたが上杉持定のはからいで、多賀谷家植と、その家臣和賀(若)十郎らに護送されて、岩槻の太田資頼の許に着いた。この後政氏は岩槻より久喜に移って隠棲し、享禄四年(一五三一)七月一八日に没し甘棠院(政氏の諡号で寺院名)に眠っている。
 
  
  (1) 足利政氏状は岡田郡横曽根村羽生利右衛門所蔵文書で、佐原の清宮氏が贈る所とある。この羽生氏
    は後に渡辺氏と改姓している
 
室町期の諸系図
 

上杉氏系図(一)


[足利氏系図 多賀谷氏系図(一)]


[秋葉氏系図(一) 秋葉氏別系図]