常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第四章 南北朝・室町時代の争乱と常総地方

第四節 永享の乱と常総

永享七年(一四三五)一月、佐竹義憲の一族らが持氏に対して兵をあげると、持氏は部将らに、その籠る長倉城(東茨城郡御前山村)を討たせた。城兵らは、結城・小田・千葉氏らに降ったので義憲は簗田満助をたよって降伏し、公職は奪われたが助かっている。義憲は簗田氏の労を多とし武州埼西三三か村と、下総関宿七か村を割与している。やがて簗田氏は関宿城主になることが出来た。また後に、簗田氏が四代公方晴氏に婚を通じ、後北條氏も晴氏に女(芳春院)を入れたので、後継問題がおきたが、佐竹氏が簗田氏を援ける因ともなったのである。「行方町郷土史第三集」に「従来の関宿城主下河辺氏(古河城主の分流)が永享の乱に加わって失脚したので、行方郡に知行地があったので、城を去って常陸川を下り、霞ケ浦に軍船を入れ舟子(地名)にのぼり、砦を築き、後に八甲城(行方町)を築き移っていたが、天正一八年、佐竹義宣に攻められ、後裔は二月九日、二の丸にて戦死す」とある。菩提寺の曹源寺は、移住の義親が開基し、その諡号を寺名とし、その宝篋印塔も現存している。また、別説「下河辺氏系図」には、関宿城主久重の子一〇代盛重が兼領の常陸行方へ移ったとあり、その子一一代成行は古河公方成氏より一字を賜っている。