常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第三章 宗教と信仰

第四節 浄土宗と地方文化

報国寺開山の記主禅師良忠上人然阿(ねんあ)(一一九九~一二八七)大和尚は正治元年(一一九九)七月二七日、石見国に生まれ、相模国鎌倉にて浄土宗第三祖となった。始め郷里石見三隅庄で念仏を修めたが、嘉禎二年(一二三六)筑波へ下って聖光房弁長に会い浄土宗の秘要のすべてを授与された。その後諸国を歴遊して布教したり、著述に努めたりして正嘉二年(一二五八)鎌倉に蓮華寺を開き、光明寺と改称した。主著「観経疏伝通記」「選択決疑鈔」があり、寺院は四八か寺を開山しているが、主にその地の領主か地頭の請によったものである。その上、自ら仏像四八軀を彫刻している。こうして弘安一〇年(一二八七)七月六日、年八八で寂している。
 下総国豊田郡水海道の亀岡山豊田院報国寺はもと真言宗といわれるが、その地の地頭の招により三、四か月滞在した良忠により改宗されたというが、開基は、豊田院とあるから豊田郡の地頭豊田氏であろう。
 

報国寺

 左の石碑はそれをうたっている。
 
   初真言宗[梵字光明真言/碑石有テ今]弘安之始 記主禅師東国遊化二十九年中当処ヘ来臨 三四ケ月
   住務改宗 其後日繁栄檀林未究時所化多輻湊学寮回跡 古井戸等数多在之 頼朝卿五輪石塔 神社古木
   等境内ニ在之 後永享中結城多賀谷等合戦度々 大衆戦争事出于東国戦記 其後慶安元子年八月十七日
   御朱印十五石被下之 本堂九間半二六間半 余略之
 
 右をみるに、元真言宗の証として梵字光明真言の板碑が境内にあるとしてある(1)。この板碑は暦応五年(一三三九)のもので、報国寺建立より四三年後のものである。これは浄土宗寺院の檀徒に真言宗徒が半世紀近くも容認されていたことになり、あり得ないことであろう。
 右の板碑による改宗の真偽はいずれとして「天満宮縁起」によって報国寺が真言宗から浄土宗に改められた伝説を要約してあげてみる。
 
   其後鎌倉光明寺開山良忠上人記主禅師は、後宇多天皇弘安四年当村へ来り 高原家に六、七日宿し当村
   を浄土宗に改めさせようと説法したが、村中承引しない。よって上人は龍宮に入るとて或る日の夜、報
   国院の前の沼に飛び込み翌日六つ時、龍宮より土産に愛宕貝を持参して戻られた。村民驚き、高原一族
   八人、同十人衆並に三十六人の百姓町人残らず浄土宗に改めた。亀岡山豊田院報国寺は京の知恩院を本
   山とする鎌倉光明寺の末寺となった。これよりこの沼を愛宕沼、上人が沼より上った道を愛宕原という
   云々。
 
 高原氏(後の松信)の当時の存在は明らかでなくも、新宗教に改宗させる手段として僧侶が用いた方便だろうという。
 なお、一六世の時、師檀不和、土井利勝の検使をうけ、追放に及び書類を焼捨て、あるいは埋めたという(2)。弘経寺心誉文宗は伴頭、応誉南龍は報国寺一七世、その後も伴頭を住持と定めている。
 南龍は朱印状(一五石)の再交付に努め、慶安元年八月に得ている。