常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第三章 宗教と信仰

第三節 浄土真宗と常総地方

横曽根(水海道市豊岡町)報恩寺を開いた性信の師親鸞について述べることとする。
親鸞は日野有範の子で、慈鎮に天台宗を学び範宴と号した。後、法然(源空)に浄土宗を学び善信といって自らは浄土真宗(一向宗)を始めた。肉食妻帯をみとめて自らも結婚している。これは当時、僧侶が密(ひそ)かにしていたものを公然として改革をはかったものである。師法然が他宗より排斥され土佐に流されると、自らも準じて越後に配流されている。この時、室である九條兼実の女も随行したとあるが「恵信尼文書」(1)に恵信尼なる妻がみえる。尼は、治承二年(一一七八)まで越後介であった三善為教(為則)が京に帰ってから生まれた女で、親鸞が越後に流されると共に来り、越後を去ってからもお伴をし、下妻にも住まったが、後、越後にて没したとみえて、越後飯倉町米増の五輪塔下に埋まっている。
 親鸞は下妻小島郡司武弘に招かれ、小島に三月寺を建て、今に遺跡には大銀杏が聳えている。笠間、稲田に教化し、「教行信証」を著し、また、岡田郡主稲葉伊豫守勝重(弟子一心房)に請われて、大高山(向石下倉持)願牛寺を建て、これを一心房に譲って稲田に赴いている。一説に大高山道場は豊田四郎親治(良信)が善性のために親鸞を請じて建てたという。善性とは始め豊田氏が招いた周観(後鳥羽院第三皇子、正懐親王)で親鸞が来たのをきき入門したもので、改めて善性と称し、貞応元年(一二二二)には石下大房に東弘寺を開いたが、これは良信に譲ったのであった。
 親鸞の報恩寺にての肉食については後記する。親鸞は寺前より船で飯沼をよぎり、猿島郡大口村の地頭落合彦兵衛方に宿泊したといわれ、今、船縛松が遺跡として存する。また同家には伝親鸞作阿弥陀如来像を残している。辺田村(岩井)の聖徳寺はもと三論宗で当時天台に改宗されていたが、親鸞二四輩の第七番西念が弟子である住持真証に稲田の親鸞を尋ねさせ真宗に改めている。親鸞も同寺を訪れたとみえて御手植えの老松があった。聖徳寺が西念寺と改称されたのは、近世の延宝年中である。俗縁(2)により一ノ谷(境町)に流謫されていた関白兼実の十男幸実(3)を教化し、そこに妙安寺を開かせ、名を成然と袮させている。
 三村(岩井市)でも、三論宗葛城寺は天台宗になっていたが、成然を連れて行き改宗改称させ、浄土真宗妙安寺と呼んでいる。なお同村には同じく改宗した内手氏の浄国寺がある。貞応二年(一二二三)八月二六日、鵠戸沼を渡り長州寺(岩井市長須)に至り、深栖正重(覚円を改め安養)を改宗し、寺名を阿弥陀寺と改めている。