常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第二章 幕府の衰亡と郷村

第二節 郷村の年貢諸役

豊田、幸嶋の郷村は、鎌倉幕府の奉行、畠山六郎らによって建暦三年(一二一三)検地されて年貢諸役銭諸懸銭等が定められ、鎌倉末期に豊田親治が下幸嶋の大部をも併有しているが、豊田、岡田など、諸納の内容は同様であるが記載形式を異にした「幸嶋十二郷 豊田三十三郷 惣」の覚が宗任神社に蔵されている。
 岡田(飯沼)では五四〇貫文の中に年貢と夫銭が幸嶋同様、含まれている。
 羽生と大輪は書き替えされている。第二次書載では、建暦三年のものより、幸嶋で書き替えた年号の嘉吉一三年(実は享徳二年)のものに近い。これは幸嶋と同様、年貢と夫銭を合わせて載せているからである。
 羽生では応永二一年に弘経寺が建立されて、飯沼寺領を分郷したから四〇貫文から二五貫文に減っている。
 記載形式は内容は同じであるが次の通り小異がある。
 
  豊田郡 岡田(羽生大輪) 下幸嶋
  年貢 年貢と夫銭 年貢と夫銭
  年頭銭 年始銭・堀之内免 年始銭
  役人江役人免 役人江 袴摺(はかますり)(役人江と役人面を含)


 
 下幸嶋では合五〇〇貫(岩井、辺田一〇〇貫と推定)となるが鎌倉には都合六五〇貫納であるからまだ一五〇貫が不足である。これは他領が数か村あるから、その分である。
 大輪村では年貢夫銭八〇貫文が五〇貫文になっているが、三〇貫文を脱している。これは村高のちがった地頭が二人生じたからである。堀(ほり)之内免が五貫文と三貫文は載っているからすなわち五〇貫文と三〇貫文の地頭がいたわけになる。地頭屋敷は堀を廻らされているから、「堀之内(ほんのうち)」といわれた。その代表的な遺構は尾崎の秋庭家屋敷と伊古立の永瀬家屋敷である。
 豊田は年貢合(一七三五貫)三五六〇俵となっている。年貢貫数と俵数の比較は幸嶋は夫銭を含めて一対一・六、豊田は一対二。当時の桝は一升が三升に当たるから一二杯入りは一俵三斗六升で口米を入れると近世の一俵の桝目にちかい。
 中世、豊田郡は水田の多い先進地帯で地積の割合に年貢が多いこと、すなわち貫高や納俵数の多いことがみられ、岡田飯沼地帯これに次ぎ、幸嶋は畑地が多く、馬牧のある後進地帯で年貢が比較的少ないことが示されている。
 年貢は、下幸嶋では岩井の富山源六郎、弓田の染谷助二郎、矢作の富山与二郎が二四か村の百姓中を引き連れて富田の地頭飯田正太郎が同心し勘定して鎌倉へ向かった。飯田氏の道ゆきは華々しかったと語りつがれている。
 豊田郡では比気の五郎三郎、黒須の弥太郎、飯沼の大村の大里与一郎同心致し三三郷の百姓中を引き連れたとある。鎌倉府への納貢の人数は小河(小貝川)一七郷は五人で内訳は飯沼六か村の二人、若郷四か村の一人、大河の内六か村にて二人である。大河(鬼怒川)一六郷の内にて五人、計三三郷で一〇人であった。代官岡見(尾上)道泉殿と五郎三郎らが談合して年中(冬成まで)に貢納する。納期は夏と秋の二期と示されているが、近世にも踏襲され夏、秋、冬の三期にわかれていて、夏成、秋成、冬成といわれる。そして冬成に貢を完納されるようになっている。銭納については、東国のみならず奥州まで行われている(1)。仁治元年(一二四〇)に荘園領主や地頭らは種々の年貢や雑役を銭納するよう百姓に求め、市場にて換金化もはかっている。
 次項で、宗任神社文書の内容について記述してみたい。