常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第一章 武家社会の発展と鎌倉幕府

第二節 幕府の政治機関

宝治元年五月二八日より三浦氏が逆心し世情不穏となり、豊田氏はこれに味方した。六月四日に三浦泰村の一族与党とも誅罰され、六月一九日になって、高麗寺衆徒らに密告されて、豊田源兵衛尉法師の子息太郎兵衛尉、次郎兵衛尉兄弟は生虜にされている。
 宝治二年(一二四八)正月三日、将軍御弓始に左親衛亭にお出の供奉人に名越尾張前司がある。この名越は評定衆の一人となっている。
 建長二年(一二五〇)正月一六日、将軍八幡参宮には佐竹氏が供奉している。同年三月二五日、方違(4)に将軍、相州北條泰時亭に移る際幸嶋小次郎左衛門尉時村が供奉に加わり、翌日、将軍射的を見たしとのことに五番一〇人のうちに幸嶋小次郎時村が選ばれた。
 豊田氏や関氏は宝治元年六月の三浦氏騒動に、その党となったため勢力を落とし幕府の信頼を失ってしまって、行事に出されなくなったが幸嶋氏は連続して出ているのである。
 豊田氏は鎌倉に館あり結番衆の一人であるが、暫時の失脚ではあるが豊田住民にとっても痛心であった。
 建長二年(一二五〇)三月一日、京都に閑院殿造営され雑掌としての奉行に豊田太郎幹重がいる。
 建長三年(一二五一)八月二一日の笠懸や同二四日の犬追物の射手にも幸嶋氏は出ている。
 建長四年(一二五二)四月三日、椀飯(おうはん)に相馬郎兵衛尉胤経が供奉している。
 同年八月一日、将軍宗尊拝賀の随兵には、相馬次郎左衛門尉胤綱が直垂姿で佐竹次郎長義らと共に加わっている。
 同年一一月七日、将軍が新御所に移った際は、相馬孫五郎左衛門尉胤村と佐竹行雄がお供している。
 康元元年(一二五六)六月二九日、放生会参宮の人数の中に相馬氏では、次郎兵衛尉と孫五郎左衛門尉がみえる。
 同年七月一七日、将軍、最明寺参内の行列に次の御車網代庇に相馬次郎兵衛尉胤継、後供奉には小田左衛門尉時知がみえる。時知は七月二九日の放生会の随兵五人中の一人である。建武中興には雑所決断所二番局五奉行の一人となっている。
 八月一五日の放生会には相馬孫五郎胤村が随兵となっている。
 以上のように鎌倉に館のある相馬氏は番役を勤めているが、水海道絹西の郷士百姓らは、当時、相馬氏に奉仕していたわけである。
 正嘉元年(一二五七)六月一日、御鞠会に将軍のお出に露払いとして幸嶋左衛門尉が出ている。
 同年一二月、小山七郎左衛門尉と幸嶋小二郎左衛門尉らが結番の次第を守り懈怠なく勤仕されている。
 文応元年(一二六〇)四月一日、相馬孫五郎左衛門尉胤村は将軍が陸奥守亭にお出の供奉をした。守谷城主相馬孫五郎左衛門尉と太田(常陸)に在城の佐竹常陸次郎外二人は、弘長元年(一二六一)八月一五日の放生会には病気であるから将軍の随兵を辞退したいと七月一〇日に願を出している。
 北條時頼は康元元年(一二五六)に執権をやめ、文永五年(一二六八)には一八歳の時宗が継いだが時宗は蒙古の来襲をしりぞけ、両皇統迭立を処理している。
 
  
  (1) 「吾妻鏡」巻四に、八田、小山氏を「如駘馬之道草食同以不下向之状如件」とある
  (2) 飯沼弘経寺建碑に北朝年号の正慶二年(一三三三)とある
  (3) 性信が開山した野州都賀郡佐川野村法得寺過去帳には弓田城主松崎筑前守(大中臣法得)とある
  (4) 他出に悪い方角をさけて前夜に他邸に泊る