常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第三編 中世の水海道地方

第一章 武家社会の発展と鎌倉幕府

第二節 幕府の政治機関

豊田氏は源氏に従って前九年の役、後三年の役に奥州に出征し、源頼朝には相馬氏とともに千葉常胤に属して、藤原泰衡を征伐し、さらに、建久元年(一一九〇)一月八日、大崎兼任が叛した際も出征し、同年二月に平定している。豊田義幹や結城朝光は頼朝の外出行列によく供奉している。将軍に各地の地頭らが馬を献上したことがあったが、豊田郡は古来、馬の名産地であるだけに義幹は最良の鴇(とき)毛のまだら毛の馬を献じている。また豊田氏は将軍に扈従の際、馬牽に選ばれている。これには豊田の住民や牧士が馬卒になって附き添っている。
 建久元年(一一九〇)一一月三日、頼朝は鎌倉を発し、同七日入洛の行列に先陣畠山重忠の随兵となって豊田兵衛尉義幹は三騎列の一人として三三番目に、相馬次郎と共に加わっている(『吾妻鏡』)。この行列は壮観であった。同一二月一日、頼朝は右大将に任ぜられたが間もなく辞して鎌倉に帰った。
 建久二年(一一九一)二月四日、頼朝は鶴岡宮に参詣し、豊田太郎は先陣の一人として勤めた。翌三年(一一九二)七月、頼朝は征夷大将軍に任ぜられている。同年一一月二日、豊田は御堂供養の導師の下向の雑事を司る五奉行の一人に選ばれている。
 建久六年(一一九五)三月一〇日、将軍が奈良の東大寺供養に出向の際、随兵として豊田兵衛尉が家子郎従を連れて供奉している。
 承元元年(一二〇七)八月八日、下河辺行平が六二歳で病死すると、上幸嶋と行方を領する幸嶋四郎行時は、その後、将軍の供奉をすることになった。
 建暦三年(一二一三)五月二日、三日の和田合戦に討死したものに豊田平太や大方五郎政直、同大郎(六)兄弟がある。
 建保二年(一二一四)七月二七日、政子と子実朝の大慈寺供養に、行時は随兵となっている。
 建保四年(一二一六)七月二九日、将軍実朝の外出には行時と関政綱が従っている。
 承久元年(一二一九)七月二五日、執権北條義時が京都より鎌倉の自亭への帰途、幸嶋四郎は結城氏などと共に先陣の随兵である。
 承久三年の承久の変に、豊田四郎は敵一人を豊田五郎は四人を討ち取って功をたてたが豊田平太は六月一三日負傷し、相馬三郎は同一四日、宇治渡河戦に討死し、行時も溺死した。行時は一〇〇余人を率いて九〇余人をなくしたのであった。
 行時の死後は、その子の左衛門尉行光(時光)が代わりに登場してくる。
 元仁元年(一二二四)二月一一日の犬追物には犬二〇疋を射るのに射手六騎のうちに結城七郎兵衛朝光がいる。
 嘉禄二年(一二二五)九月二二日、行光は幕府南庭の草鹿勝負の射手に一番に出ている。
 安貞二年(一二二八)三月九日、由比浜の犬追物には犬三〇疋を一二人で射たが下河辺も結城も選にもれた。
寛喜二年(一二三〇)二月一九日には六〇疋を二手一二人で射たが、この日は下河辺は死んでいるから行光と結城朝光が出ている。
 安貞二年(一二二八)七月二三日、将軍頼経が三浦義村邸においでの節、お供に相馬五郎や結城七郎朝広がいる。
 嘉禎元年(一二三五)六月二九日、将軍、新造御堂供養に出られ、行光は関政泰と共に参列。
 暦仁元年(一二三八)正月三日、椀飯(重臣の将軍振舞)に豊田太郎兵衛尉と同次郎兵衛尉が五番御馬を勤めている。同年正月一七日、将軍が野路宿から出発して入洛の際、随兵一九二騎のうちに豊田兄弟も加わる。
 同年正月二〇日、弓始めに一〇人のうちに行光と秋庭小次郎が選ばれている。
 同年二月一七日、天皇野路宿出御の随兵に先駿河前司随兵(三騎相並以家子三十六人為随兵)一二番のうち、五番目に秋庭小三郎がみえる。
 仁治元年(一二四〇)正月六日の弓始めにも行光と秋庭が出ている。
 同年八月二日、将軍の二宮(鶴岡八幡と若宮)参詣に、行光は先陣に、相馬左衛門尉と秋庭小次郎は後陣に随従の兵となっている。
 寛元二年(一二四四)四月、将軍頼経が辞職し、その子頼嗣が継ぎ、同六月一三日、元服式をあげ、吉書の行始に幸嶋次郎時村と下河辺左衛門三郎が他の二〇人と共に将軍御車を護っている。同一七日、大番勤仕には新田太郎は在京となる。
 寛元二年(一二四四)八月一五日、将軍が鶴岡八幡放生会に参じた際、供奉の先陣と後陣の間の一陣に相馬五郎左衛門尉胤村と関政泰がある。一年後の同月日の放生会には六二人の供奉の後陣随兵の中に幸嶋次郎時村や常陸(佐竹)行雄の名がみえる。
 寛元三年(一二四五)八月一六日、鶴岡馬場の儀に一〇列のうち八番に相馬四郎兵衛あり、流鏑馬(やぶさめ)の射手一六番のうち一三番目に相馬小五郎と同左衛門三郎とが出ている。
 寛元四年(一二四六)八月一五日、将軍出御に行列の先陣随兵に相馬次郎兵衛尉がある。
 宝治元年(一二四七)五月一四日、前日なくなった御台所を故北條経時の墓所の傍に埋葬する時、供奉三〇人中に関左衛門尉がある。