常総市/デジタルミュージアム

水海道市史 上/下

水海道市史 上巻

第二編 原始・古代の水海道地方

第五章 律令国家の衰退と武士の台頭

第二節 平将門の乱

将門は、「一国を討つも、坂東八ケ国を虜掠するも国の咎めは同じ」という興世王の言葉に煽動され東国制覇の意志を固めた。
 天慶二年(九三九)一二月一一日、将門は数千の軍を動かし下野の国府(栃木市総社町)を囲んだ。将門軍の威容に駑いた新任国司藤原公雅(きんまさ)、前国司大中臣全行(またゆき)は、直ちに将門を再拝し地にひざまついて印鎰を捧げている。そして「四度の公文」(22)や在任中の俸禄までとりあげられた。役人たちは、国内の官民に同情されるほど心痛むありさまであったが、ついに東山道より都に追いあげられた。
 同月一五日、上野の国府(前橋市)に移った将門は、介藤原尚範(ひさのり)(23)から印鎰を奪い、一九日には護衛兵をつけて信濃境まで送り京へ追いやった。国府の四門を固めた国庁内で祝宴中、一娼伎(総社の巫女)が八幡大菩薩の使いと称して「朕が位を蔭子(五位以上の官吏の子)平将門に授く。その位記は左大臣菅原朝臣の霊魂が表する。右八幡大菩薩八万の軍を起こし帝位を捧げ奉る、すぐに三十二相の音楽を奏して之を迎えるがよい」と託宣した。八幡は将門の守護神であり、道真の霊魂は先に大生郷に遷宮(24)したこともあって、感動はさらに深かった。将門は位記を頭上に捧げもって再拝し、軍兵は総立ちになって歓声をあげた。興世王と玄茂は謚号を新皇と奏した。
 

平将門木像(国王神社蔵)

 そして、事の顚末を奉上する陳情文を一二月一七日太政大臣藤原忠平宛(25)にしたためている。この中で将門は、事ここに至った理由を述べ、さらに桓武天皇の五代の孫に当たり、新皇を称する正当性を主張している。しかし、弟将平、小姓の伊和員経は「天命」に叛逆する大罪と諫言している。
 そうするうちに、興世王と玄茂らが新皇の宣旨と称して諸国の除目を発令してしまった。
 
   下野守平朝臣将頼(相馬御厨三郎守屋城主)
   上野守多治経明(常羽御廐別当)
   常陸介藤原玄茂(常陸掾で玄明の縁者)
   上総介興世王(武蔵権守)
   安房守文屋好立(上兵・千曲川の戦いで功)
   相模守平将文(将門弟 相馬七郎)
   伊豆守平将武(将門弟 相馬六郎甲斐駿河を侵す)
   下総守平将為(26)(将門弟 相馬五郎)
※括弧内は前歴


 
 こうして諸国の受領が決定し、いよいよ皇居を建設するための協議を行った。この王城造営については、机上の空論に終わったという解釈が一般的ではあるが、『将門記』の記文、「下総国之亭南…」の位置(27)は、古くからさまざまな推測がある。また、犠橋(浮橋)は地理的環境を考える時、やはり石井営所(島広山)の南方という説が最も妥当と思われる(28)。この附近には、現在でも岩井の「三種子井」と称する籾の芽出し用の井池址がのこり、しかも富田、弓田、宮(幸)田、神田山・辺田等の集落名称を考え合わせると古くから農耕地帯としてあったと考えられる。また、猿島台地は古来馬牧地で良質の馬を産し、騎馬を主体とする将門軍にとって絶好の軍事基地を作る可能性があった。さらに南面して、藺沼(いぬま)や常陸川(近世の利根川)の存在は、自然的要害と水上交通の長所を兼ね備えた要所として、豊田、相馬郡と繫がる地点にあった。後世の『相馬日記』のように、「相馬大井ノ津」を水海道に比定した説(29)もこのような地理的要素を考え合わせたものから生まれているように思える。
 諸国の長官らが京に逃げ去った後、新皇は兵八〇〇〇を率いて八州巡検をなし、国々の官吏の在勤を命じて相模から本拠地下総に帰った。そして、十分な休息もとらないうちに、天慶三年正月中旬、残敵を掃討すべく多治経明や豊田・猿島の近衛兵五〇〇〇を率いて常陸に入った。那珂・久慈両郡の境で、郡司藤原氏らの歓待をうけた将門は、貞盛、為憲の動静を尋ねている。そして一〇日目に、吉田郷蒜間江(ひるまえ)(30)附近で貞盛と源扶の妻を捕えた。
 新皇は貞盛らの妻妾には咎はないのだから寛大にと部将たちに勅命を下したが、時既におそく、勅命が届く前に、兵士たちによって手ごめにされてしまっていた。新皇はこれをたいそう哀れに思い、賑恤(しんじゅつ)を施そうと、一かさねの衣類を下賜し、和歌(31)を贈答して王者の風格を示した。しかし本命の貞盛はとうとう発見することはできなかった。
 下野国庁の攻略から、二か月間に及ぶ長い戦闘で将門軍の消耗は激しかった。数千の兵を長期間拘束することは、食糧の確保と生産活動を阻害するので軍兵を諸国に帰還させた。『将門記』はこの時期の将門の兵を一〇〇〇人にも満たないと記している。
 このような将門軍の手薄を伝え聞いて、貞盛と押領使藤原秀郷(32)は、四〇〇〇余人の常陸、下野兵を集め、突然に合戦を企てた。将門は非常に驚いて、天慶三年(九四〇)二月一日、猿島等下総の手兵四〇〇を率いて進撃した。貞盛、秀郷軍の機先を制するためであったが、先鋒の将門軍は敵の所在をつかむことができなかった。そうするうちに、副将玄茂、陣頭経明、遂高らの後陣は、三毳(みかも)山(栃木県岩舟町)に登って秀郷軍を発見した。玄茂らは性急に勝負をつけようと、将門への報告を怠り、唐沢山(佐野市)に向かった。しかし下総軍の平地馬は下野軍の山地馬に及ばない。秀郷の計略は巧妙で、玄茂軍はたちまち翻弄され包囲されてしまった。軍略家の将門も、秀郷の老練な攻撃に対応できず、総退却せざるを得なかった。