水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[下市(しもいち)の部]

白梅一・二・三・四丁目


白梅一・二・三・四丁目

紺屋町(こんやちょう)
 紺屋町は、西が藤柄町の並松に、東は浜田村瓦谷に、南は中沢田畝に限られ、北は備前堀に臨んで長さ一一六間余、戸数三六であった。
 この町に面した備前堀には消魂橋(たまげばし)・中橋の二つの橋があり、西にあった消魂橋は紺屋町より七軒町に通じ、城下と農村との境ともされた橋で七軒町橋といったものを、元禄三年の令で、消魂橋と改めた。それは、この橋が江戸街道の起点にあたり、旅立つ者と家族などが、ここで別れを惜しんだことからこの名が付いたと言われる。中央にある中橋は江戸町に通じ、本一町目の酒肆道明作兵衛が、田畑に往来するため私的に作った橋であったため道明橋とも呼ばれた。
 紺屋町の名の起こりは、天正十九年(一五九一)佐竹氏の水戸入城の時に、太田の染戸も共に青柳村(市内)に移住したが、その後寛永初年の「田町越」のとき、この地に再移住したことからという。
 この地には三つの寺院があった。常念寺(じょうねんじ)(浄土宗)は清地山観音院といって寛永四年(一六二七)の開基、泉蔵院(せんぞういん)(真言宗)も同年の開基で、もう一つは正善院(しょうぜんいん)(真言宗)といい慶安三年(一六五〇)に創建されたが、これらの寺はいずれも寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 明和三年(一七六六)の大火で、下町一帯の家屋が焼失した後、火難救済の神として金毘羅(こんぴら)権現がこの町の西方に建てられた。
 その後この町には紺屋職人が集住し、紺屋頭などもいた。元禄七年(一七九四)の御目見町人にはこの町の紺屋職人の名も見える。
 紺屋は、水を使う仕事の関係から備前堀の近くに住んだのであろうが、記録によるとこの堀も水不足の時があり、そのような時には番水といって村ごとに時間割りで堀から取水した。寛政四年(一七九二)の干害の時には、千波湖の水が干上がって水門を全開しても紺屋町への流れがなくなり、江(堀)下の村民が番水のため水門を離れないで見張っていたが、どうにもならなかったという。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には紺屋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市紺屋町となった。
 紺屋町は、東は瓦谷、南は朝日町、西は吉田・高橋町に隣接し、北は備前堀であった。

明治42年の紺屋町,藤柄町

 昭和五十一年二月に一部が白梅四丁目となった。

紺屋町

藤柄町(ふじがらちょう)
 藤柄町は吉田神社の台地の下で、東側・西側とも一一五間あり、戸数四五戸、古くは吉田村に属して、吉田明神の馬場があった。寛文五年(一六六五)には屋敷持二二戸、総人口一五九人、そのうち十人組人口九〇人、店借人口六九人であった。
 この町は城下の入口にあたり江戸街道の宿場的な性格の町並みであり、延宝年間頃に開かれ、その後遊女屋なども出来た。この藤柄町縄手の両側には松並木があり、貞享元年(一六八四)三月松が大半枯れてしまったため、松苗四百八本を新しく植え付けさせたという記録もあり、参勤交代の通路でもあったため松を植え街道を整備したものであった。
 藤柄町より台町へ上る坂はふじがら坂と呼ばれていたが、元禄十三年(一七〇〇)に、明神坂と改められた。この坂は、今の女坂のことで、一名乗物坂ともいわれた。
 天保九年(一八三八)十二月、藩主斉昭は手元金参十両を出して、この藤柄町に製紙所を建て、大判の和唐紙を作らせた。翌年四月には試作に成功し、その後更に松皮紙、梅皮紙などの紙も作らせている。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には紺屋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市藤柄町となった。
 戦前まで藤柄町には問屋を兼ねた古い商店がかなりあり、主に吉田、千波方面の住民の需要に応じて繁盛していた。
 昭和五十一年二月に一部が白梅四丁目となっている。

藤柄並木(常磐公園攬勝図誌より)

高橋町(たかはしちょう)
 高橋町は個人の名が付いた町である。大正初期、茨城県においては千波湖の干拓が懸案事業であった。このため県は予備調査を紺屋町に住んでいた高橋友吉に委託、その後その子捨吉氏がこれを引き継ぎ、那珂川の流量と、これに流れ込む桜川の水位との関係を三年間調査した。その結果、千波湖七〇ヘクタールのうち、東側の五〇ヘクタールは干拓可能ではあるが、水門橋付近から吉田神社にかけては、あまりの深さに、水田にしても耕作出来そうもなく、高橋氏は埋立てて新しい町をつくるべきだと提唱した。この計画は当時の守屋知事に受け入れられ、大正十四年吉田村大字吉田字千波端の三万三千平方メートルが高橋氏に払下げられた。この埋立ての土砂は主に吉田神社と東照宮の崖を切りくずし、馬車で運んだという。戦争のために一時中止していたが、終戦を契機に継続され、工事完成まで五年間もかかって埋立は完成した。
 その後、この吉田村大字吉田字千波端の土地は、昭和二十四年十一月三日水戸市に編入され高橋町が新設された。
 高橋町は、南は吉田、北から西にかけては元吉田町に隣接し、東は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に白梅三丁目、白梅四丁目となった。
吉田(よしだ)
 明治二十二年吉田村のうち字宮内・字坂下・字松並・字宮下(一部)・字東組(一部)・字台町西裡(一部)・字御手洗尻(一部)・字谷津(一部)が水戸市に編入され、水戸市大字吉田字坂下などとなった。その後、昭和八年一月一日に大字の廃止と、町名の改称が行なわれ、明治二十二年に編入されたこれらの区域は統合され水戸市吉田となった。
 昭和二十三年六月にはこの水戸市吉田のうち吉田神社を中心とする一部区域が宮内町と改称された。
 昭和五十一年二月に、一部が白梅四丁目となっている。