水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[下市(しもいち)の部]

東台二丁目


東台二丁目

鍛冶町(かじちょう)
 本七町目より北に入り、十軒町に向かう所が鍛冶町である。南側二一間、西側六間、東側三七間、北側三七間、戸数二七戸の町であった。
 この地には、鍛冶職人が居住していたのでその町名が起こった。一般に職人は、その技術の習得の面から世襲が多くなり、城下町では経済統制のため同業者を同一地区に集住させたこともあって、職人町が形成された。そのためこの鍛冶町をはじめとして各種の職業名をもった職人町が出来た。この地には、普門院(ふもんいん)(真言宗)と、光円寺(こうえんじ)(浄土真宗)の二つの寺院があったが、共に寛文六年(一六六六)に破却となり、その跡は、武家屋敷となった。
 寛文八年(一六六八)の間口帳には一四七間二尺とあり、元禄三年(一六九〇)にはこのうち四六間を分割して赤沼町へ移している。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市鍛冶町となった。
 鍛冶町は、東は曲尺手町、南は本七町目、北は赤沼町・十軒町、西は東台・白銀町に隣接していた。
 昭和五十五年二月に東台二丁目、本町三丁目となった。

旧鍛冶町(東台2丁目)

曲尺手町(かぎのてちょう)
 元禄三年(一六九〇)から、本七町目より通八町目まで南北に走る町を曲尺手町と呼んだ。
 カギには先の曲がった、物をひっかけるための金属製の物やそれから始まった武器を意味する鉤(かぎ)と、錠(じょう)の孔にさし入れてこれを開ける道具の鍵(かぎ)があり、この町名に関係するカギノテとは、鉤の手のことである。それは、鋼または真鍮などで直角に折れ曲がった形につくられた物差しで、大工職などが木材を工作するときに用いる曲金(まがりがね)・曲尺(まがりじゃく)の曲がった角を意味する。そのため、直角に曲がっている道路を鉤の手と呼び、その当て字として曲尺手が使われ、この地にはそのような道路があったことから曲尺手町となった。
 曲尺手町には、宝暦・明和の頃までは、酒屋茗荷屋惣次郎、御伽羅油所吉田屋弥一兵衛、御紺屋吉左衛門、酢・醤油・味噌販売の額田屋吉衛門、小間物商の藤屋吉兵衛などいろいろの商店が軒を並べ、多くの奉公人を使い繁盛していたが、天明・寛政の頃になると、すっかり衰えて明店(あきみせ)が多くなった。このように、下町の衰微が甚だしいので、上町の者は当時「下町に多いのは明店と旅籠屋」と言いはやしたという。
 文化・文政の頃には、曲尺手町は真砂(まさご)町と呼ばれたこともあった。それは、この町に御伽羅油所吉田屋弥一兵衛の店があり、油を詰めて売る貝殻の屑がいつも浜の真砂のように路上に散らばっていたので、そのように呼ばれたという。
 天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によれば、曲尺手町は東側六三間、西側四〇間で、戸数二四戸とある。
 明治三十年十二月二十四日、この曲尺手町に合資会社下市銀行が資本金五万円で設立されたが、米穀商・呉服商を主要取引き先とした関係もあって、大正九年三月十五日から始まった米穀綿生糸の大暴落による影響を受けて収益が減じ、翌十年八月十日に土浦五十銀行に合併されている。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市曲尺手町となった。
 曲尺手町に隣接する町は、東は八町目・浜田町、南は材木町・本七町目、北と西は鍛冶町であった。
 昭和五十五年二月に東台二丁目、本町三丁目となり、この地には水戸本町郵便局がある。

昭和10年の曲尺手町の道路

十軒町(じゅっけんちょう)
 十軒町は、東台の東方にあって、搦手橋より東南に向かって、鍛冶町に到る間の町をいった。
 古くは武熊村の内で、後に開かれて町となり、元禄年間に十軒の武家屋敷があったため十軒町と呼ばれるようになったもので、町内の戸数によって名付けられた町名である。
 この地には、宝珠院(ほうじゅいん)(真言宗)があったが、寛文六年(一六六六)に破却となり、その跡地は武家屋敷となった。その後寛政年間には十三軒の武家屋敷がかぞえられる。
 竹隈町から東に向かい東台を貫き搦手橋に到る所は、搦手町と呼ばれていた。元禄三年(一六九〇)の令で、阿部七兵衛前の橋より竹熊に出る間を搦手町とするとあり、同時にこの三ノ町との境にある阿部七兵衛前の橋を搦手橋とするとある。この地が中世武熊城の搦手口にあたるところから、この町名及び橋の名がつけられた。
 搦手町は、後に分れて十軒町、東台、竹隈町になっている。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市十軒町となった。
 十軒町に隣接する町は、東は赤沼町・鍛冶町、北は荒神町・三ノ町、西から南にかけては東台であった。
 十軒町は、昭和五十五年二月に東台一丁目、東台二丁目となった。

天保期の十軒町

八町目(はっちょうめ)
 本町通りは、主要街路を七町目までに区分して「本」を付けて呼んだのに対し、八町目から十町目までは「通(とおり)」を付けて通八町目というように呼んだ。通八町目は、西は曲尺手町、東は通九町目で、長さ四八間三尺、北側は五三間、南側は四八間、戸数二一戸であった。
 奥州地方の大名が参勤交代で江戸へ上る時などは、細谷から入り、新町、通十町目、通九町目、通八町目、曲尺手町、本七町目、本六町目、本五町目、本四町目、本三町目、本二町目、本一町目、七軒町、藤柄町の順で水戸の城下を通過したので、この一帯は重要な町並みであった。
 慶安四年(一六五一)に上町仲町よりこの地に密蔵院(みつぞういん)(真言宗)が移り、寺内は表五間、裏二〇間あったが、寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 藩政時代にはこの通八町目でも農業が行なわれていた。寛永十八年の検地帳によれば、この通八町目の耕地所持者は入作者が多く、通九町目から二二人、通十町目から一四人、肴町一三人と下町の町人達が多かった。面積の多いほうでは庄屋の佐藤源左衛門が最高で、他に本四町目の加藤又衛門、吉田村の大学などは一町五反以上の所有者であった。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市八町目となった。
 八町目は、東は九町目、南は浜田町、北は元仲ノ町・赤沼町、西は曲尺手町に隣接していた。
 昭和五十五年二月に東台二丁目、本町三丁目となった。

明治42年の鍛冶町,曲尺手町,十軒町,八町目