水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[下市(しもいち)の部]

本町一丁目


本町一丁目

本一町目(ほんいっちょうめ)
 寛永二年(一六二五)に城下町の拡張のため、千波湖の東岸及び桜川・備前堀周辺の低湿地帯を埋立てて新たに町が開かれた。その新開の町は田町と呼ばれ、上町の大町・仲町・南町などの町人をこの町に移し、この地を商工業の中心とした。この町人の移住が「田町越(たまちごえ)」といわれる。
 このように下町の集落形態は扇形に展開する武家屋敷の周りに、低湿地を埋め立てて造られた本町通りと下新町通りに町屋敷が配置されていた。この本町は、下町開発の中心として名付けられたもので、江戸街道沿いに本一町目から本七町目までに区分され、それに対して八・九・十町目は、「通」を付けて呼ばれた。
 本一町目は下町入口の町で、西は七軒町、東は本二町目に接し、長さ一町四間二尺あり、町の南側には間口三〇間の会所(かいしょ)があった。この会所は町方で管理し、町年寄が月番制で詰めて町政を司っていた。会所は、もとは七軒町にあったが、寛文三年(一六六三)に本一町目に新築されたもので、元禄八年(一六九五)に再び七軒町に移転し、後にまた本一町目に戻っている。会所は東西に二つあって、おのおの東会所・西会所と呼ばれていた。
 下町の市は「田町越」の当時から六斎市で、本三町目を中心に本町に三・八・十三・十八・二十三・二十八の各日に市が立ち、例年本一町目の市日は正月は十三日で、二月より極月まで市日は八日であった。
 本一町目は水戸城下の町頭で、両町会所のある所ではあったが、一時町家が衰退し住んでいた家屋敷を売って裏側に移転する者などもいて、僅か一五軒となり町並みが寂れたこともあった。そのため延宝五年(一六七七)十一月に町人たちがその振興策を町奉行に願い出た。それによると「今後、上・下町の木薬棚(店)商人が商売を行なう場合、本一町目に引越してから商売をする。更に上町・下町の塗物・瀬戸物類の棚商人も同じように本一町目に引越してから商売を行なうこと、会津・日光・近江から来る塗物もこの本一町目で商売をすること」というもので、その結果同年十二月、本一町目に木薬・塗物・瀬戸物類の専売権が与えられた。
 嘉永年間には本一町目に麗沢館(れいたくかん)が建てられた。これは地方の郷校に相当するもので、医者や町人有志の向学心のある者の教育機関であった。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本一町目となった。
 本一町目に隣接する町は、東は本二町目、南は江戸町・七軒町、北は水門町・根積町、西は七軒町であった。
 昭和五十一年二月に本町一丁目となった。

昭和10年の本一町目,裏一町目,本二町目,裏二町目,七軒町,江戸町,檜物町


昭和13年の水害 本一町目(市内,加藤重蔵氏所蔵)


昭和30年代の本一町目


旧本一町目(本町1丁目)

裡一町目(うらいっちょうめ)
 本町通り南側には、備前堀に沿って裡(裏)一町目から裡(裏)七町目までの片側町があった。裏一町目は、七軒町広小路より備前堀を前にして東は江戸町の南口に続く片側町で、本一町目の南裏にあたり、長さ三〇間、戸数六戸であった。
 この地にある市杵姫(いちきひめ)神社は、元は太田村(常陸太田市)に在ってその地方の市場の祭事を司っていたが、天正十九年佐竹氏の水戸入城後太田から水戸に移り、後寛永初年の「田町越」の時にこの地に移った。毎年正月八日と九日に祭事があって、一年毎に本三町目と青物町に仮殿を造り神輿を出していたが、後には本三町目だけとなった。そして十日は上町の上・下金町で一年毎に祭りをし、十二日は太田村に出輿した。祭礼では神前でよく水飴が売られ、また参詣のあと恵比寿大黒の類や野老(やろう)(ヤマイモ科の植物)、山椒皮(さんしょうひ)・麻宇・帳面などを買う人々が多く、この日を初市(はついち)といったという。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡一町目となった。
 裡一町目は、東は江戸町、北も江戸町と七軒町、西は七軒町に隣接していて、南は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町一丁目となった。

市杵姫神社

本二町目(ほんにちょうめ)
 本二町目は、西は本一町目、東は本三町目で、長さは一町八間、南側五八間、北側六四間、戸数二八戸の町であった。本一町目から本四町目にかけては下町の繁華街で、寛政ごろの城下図にはこの本二町目に木戸が描かれている。
 下町の約三〇町は、江戸街道沿いのこの本二町目をはじめ台町・本四町目・本五町目・曲尺手町・下新町・七軒町・肴町・塩町・本七町目・通八町目の十一町を組親として、通称〝十一支配〟と呼ばれる十一組に編成されていた。
 下町町人の中には「田町越」以前からこの城下町の東部に居住し、この時期に商人となった人々もいた。たとえば、本二町目の大和田治兵衛は、「田町越」以前は浜田村に住んでおり、下町建設の時に下町商人となっている。

下町絵図(東京都,栗橋家所蔵)

 本二町目に表間口一二間の屋敷を持っていた川崎縫殿助は、藩命によって領内産物の調査を行ない、那珂湊に諸国船が出入しても、そこから江戸までの航路が不安定のため、特に領内の産物が出荷できず、領民が困苦していることを知った。そこで海路ではなく涸沼・北浦・利根川から江戸にという内陸水路による産物の出荷を考え、涸沼沿岸の海老沢村(茨城町)川根新田に河岸場を設けた。これが旧海老沢河岸のもとである。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本二町目となった。
 本二町目に隣接する町は、東は本三町目、南は檜物町・裡二町目・江戸町、北は横竹隈・水門町、西は本一町目であった。
 本二町目は、昭和五十一年二月に本町一丁目となっており、この地は古くからの商店街である。

本町通り(絵葉書より)

裡二町目(うらにちょうめ)
 裡(裏)二町目は、本二町目の南裏にあたり、江戸町より東に向かって檜物町の南口に到る片側町で、長さ二六間、戸数六戸、南側は備前堀であった。
 この裏二町目は天和・貞享以後、裡三町目と共に鍋町と呼ばれ、鍋釜類を商う商人たちが多く居住していた。
 千波湖は、下町住民にとって生活上重要な湖水であったため毎年蓮払い、藻屑払(もずくはら)いを行なうことになっていた。それに必要な人足は武家方・町方の両方より出すきまりがあったが、これも後には武家方では人足を金で支払うようになった。貞享二年(一六八五)の記録には裏二町目は本一町目・本二町目・江戸町・七軒町・裏一町目・紺屋町と共に二番の組で東から西へ四四間を割り当てられ、町家の間口一一間まで一人、一二間より一七間まで二人、一八間以上三人の割合で人足を出し、竹筏を作り、鎌や縄でもって湖面の掃除を行なったとある。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡二町目となった。
 裡二町目は、東は檜物町、北は本二町目、西は江戸町に隣接して、南は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町一丁目となった。
七軒町(しちけんちょう)
 七軒町は、本一町目・裏一町目の西側で南北に通ずる町であった。当時の町は西側六七間、東側三七間で戸数は二二戸あった。北側の根積町の境にくいちがい木戸があり、南側の紺屋町の境には消魂橋(たまげばし)があって、この橋の近くを広小路といい、高札が張り出される制札場であった。

消魂橋(常磐公園攬勝図誌より)

 七〇間の間口に商人七戸が住んだことから、寛文三年(一六六三)に七軒町の名が付いた。それ以前の町名は、穀物を販売する店が多く、本七町目を穀町と呼んだのに対して上穀町と呼ばれていた。しかし穀市は振るわず、延宝五年(一六七七)になると古手(古着)専売の町となり、更に同七年には太物類(綿織物・麻織物)の専売権も与えられた。このため七軒町で六斎市(月六回の定期市)が開かれる日は、他の町では古手・太物類の売買がすべて禁止され、この町の市で、取引きするよう命ぜられた。こうして、七軒町は古手・太物類の商人の集まる町となった。しかし、木綿は水戸の主要の商品であり、城下には木綿などを取扱う商人が多く居たから、その利益のために七軒町の古手・太物類専売に対して他の町からの反対などもあった。七軒町は、本町通りの入口にあたり、御上使御使の通行路にもあたっていたので町並みを特別に整える必要があり、延宝以前、藩が長期にわたって金二百七十両を貸付け、その返済を容易にさせるため、この町に特に古手・太物類の専売権が与えられたのである。その結果、七軒町の市日には城下の古手屋・太物商人が集まり賑わったといわれている。
 天保十四年(一八四三)一月と十月には下町に火災があった。特に十月二十八日の方は大火で、午前四時ごろ七軒町の木小屋より出火し両側全部と本一・二・三町目両側全部、紺屋町北側、南側は水道掛越あたりから中橋(道明橋)東まで、江戸町・檜物町・肴町・三軒町(後の三間町)まで類焼して午前七時頃鎮火するというものであった。
 寺社では愛宕別当金乗院が、寛永六年(一六二九)に吉田村より移ったが、寛文六年に破却となった。またこの地には奥津彦命、奥津姫命、中御方命を祀った水戸七社の一つの三宝荒神(さんぽうこうじん)がある。これはもと水戸城の東郭にあったが、寛永三年(一六二六)赤沼町に移され、その後元禄三年(一六九〇)藩主光圀が今の地に移したもので、天保年間に藩主斉昭はこれを竈(かまど)神社と改めた。竈神社は昭和二十年の戦災で焼失したが、後に再建された。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市七軒町となった。
 七軒町に隣接する町は、東は本一町目・江戸町・裡一町目、北は根積町、西から南にかけては備前堀であった。七軒町は、昭和五十一年二月に本町一丁目となり、この地には、柳堤荘(老人福祉センター)、七軒町児童公園、竈神社がある。
江戸町(えどちょう)
 江戸町は裏一町目の東にあって、本二町目の西側より南に連なり、裏一町目と裏二町目の間から中橋(道明橋)に達する町で、長さ四〇間三尺、東側・西側とも各々四五間、戸数二二戸の町であった。
 ここは魚類の荷作りをして江戸に出すところから江戸町という町名が付いた。正保二年(一六四五)の記録や元禄三年(一六九〇)の「間口帳」には江戸肴町とあり、宝永六年(一七〇九)の「人別帳」には江戸町となっているので、江戸町と呼ばれ始めたのはこの頃からであろう。
 寛政十一年(一七九九)頃より、六代藩主治保(文公)は城下の繁栄策として「江戸仕掛(えどしかけ)」と呼ばれるいろいろな政策を行なった。この江戸町に招いた京之助芝居、また紙町(後の青物町)の江戸芝居などは、江戸で評判の各種興行を水戸城下で行なったもので、近在の人々の爆発的な人気を呼び、士民を楽しませたという。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市江戸町となった。
 江戸町は、東は裡二町目、北は本一町目・本二町目、西は裡一町目・七軒町に隣接していて、南は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町一丁目となった。
檜物町(ひものちょう)
 檜物町は、本二町目と本三町目の間より南に向かって屈曲して裏二町目の東に出て、三俣橋(みつまたばし)に到る町で、その長さ三四間六寸、南側二五間、西側四八間あまり、戸数一九戸であった。
 檜物町は両側に桶工、指物職、駕籠作りなどの木工関係の職人が多く居住していたので、この町名が付けられた。この町に住む水戸藩の御用達職人としては矢師の東川奥衛門、鉄砲師の村田友衛門、弓師の鈴木伊衛門・春日三衛門らが知られるが、その外にとぎ屋・木具(きぐ)屋・桶師などの職人たちが多かった。
 享保期の同町には五人の有力な桶師がいた。彼らは「古来より桶師職仕、三、四代宛相続仕者共に御座候」と「田町越」の時期から桶師職人であったことを名誉ともしていた。また、この町では穀物商人の宿を営みながら穀物売買も行なっていたらしく、穀町と同じように伝馬役を課されていた。しかしその後寛文八年(一六六八)から、穀物市以外での穀物売買の厳禁を条件として伝馬役は廃止された。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市檜物町となった。
 檜物町に隣接する町は、東は裡三町目、北は本二町目・本三町目、西は裡二町目であって、南は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町一丁目、本町二丁目となった。

下町絵図(東京都,栗橋家所蔵)


旧檜物町(本町1丁目)