水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[下市(しもいち)の部]

柳町一丁目


柳町一丁目

轟町(とどろきちょう)
 「新編常陸国誌」によれば、轟町は元禄三年(一六九〇)に改名されるまでは石垣町または石垣脇町とも言い、石垣橋より堀に沿って西に伸び、水門町の北方に達する片側町であった。この町にあったドドメキ橋は古くは石垣橋と言って、慶安二年(一六四九)に下野有遠(藤八)が造ったもので、これが町名のもとになっている。
 この地は何度も水害に見舞われているが、とり分け昭和十三年六月は大きな被害があった。豪雨は二十八日より三十日まで続き、この時の降水量四九一・六ミリは水戸測候所開設以来の記録であった。そのため那珂川の増水により、流域の低地は浸水し、更に桜川の逆流によって、轟町でも床上浸水五・五尺(約一・六七メートル)に達し、被害も相当なものであったという。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市轟町となった。
 轟町に隣接する町は、東は竹隈町、南は横竹隈・水門町・根積町、北は東青柳町・東柵町、西は柵町六丁目・水戸市(駅南)であった。
 轟町は、昭和五十一年二月に柳町一丁目、柳町二丁目、柵町二丁目(住居表示による新町名)となった。
根積町(ねずみちょう)
 根積町は、水門町と共に矩形をなす武家屋敷の町で、南北に一四一間、東西にほぼ六〇間に割られていた。この付近の道路は放射状に本町通りと接続しており、したがって、武家屋敷の町割は袋小路などが多く、曲りくねっていて不規則であった。根積町は鼠町とも書かれ、水門町の西にあって、北は石垣町(後の轟町)に到り、南は七軒町に接していた。
 町名の起こりは、消魂橋(たまげばし)よりこの町を望むと北極星の直下にあり坎隅(ねのすみ)にあたるので子隅(ねずみ)町と呼ばれたという。すなわち下町入口の備前堀に架けられた消魂橋からこの町がちょうど北の方向にあたり、江戸時代まで東を卯(う)、西を酉(とり)、北を子(ね)、南を午(うま)と呼んだことからネの町となり、片寄った町であったこともあって、ネノスミ町とも呼ばれるようになったらしい。

昭和10年の轟町,根積町


江戸初期の根積町(茨城県立図書館所蔵)

 寛文年間には、町の西裏千波湖に沿って藩士の宅が二戸あり、柳堤よりこの町を経て、荒神社内に通ずる道路があったという。また町の中には悉地院(しっちいん)(真言宗)があったが、寛永十四年(一六三七)花畑辻(はなばたけつじ)に移された。
 明治六年五月、この町に下市最初の小学校である蒼竜小学校が設立された。その後、同年横竹隈に新築移転して男子だけの下市小学校となり、同十九年には下市女学校と合併して下市尋常小学校となった。大正十四年横竹隈より上大野村大字浜田(現在の市立浜田小学校の場所)に移転した。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市根積町となった。
 根積町は、東は水門町、南は本一町目・七軒町、北は轟町、西は水戸市(駅南)に隣接していた。
 昭和五十一年二月に柳町一丁目、本町一丁目となった。

昭和13年の水害 根積町(市内,加藤重蔵氏所蔵)