水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

緑町一・二・三丁目


緑町一・二・三丁目

木ノ折町(きのおりちょう)
 木ノ折町は、北は向井町・久保町、東は寿町、東から南にかけては元山町、西は東町に隣接していた。
 この地は、以前は常磐村に属し、昭和八年三月常磐村が水戸市に合併されてからは東原町となり、翌九年五月二十日その東原町の一部から木ノ折町が新設された。それは木ノ折という小字名があったことからこの町名が付けられたものである。
 久保町との境の地に真言宗の三縁山浄安寺(じょうあんじ)(入口は久保町)がある。八田六郎知安が親鸞上人に帰依し薙髪して浄安と称し、宍戸太田町(友部町)に創建したもので、弘安二年(一二七九)吉田郷に精舎を営み、元禄五年(一六九二)に光圀の命によりこの地に移された。明治時代にこの寺の住職夫人の内職として売り出された浄安膏は、癰・腫物・瘭疽などに効用があり、今も蛤の貝に入れて売られている。
 この町は大部分が公共的施設で占められており、昭和四十五年までこの地にあった県立水戸農業高等学校は、明治二十八年に開所した県中央農事講習所に始まる。それは南三ノ丸(現水戸警察署付近)に設置され、農場は那珂郡柳河村青柳地内(市内青柳町)にあり、その後同所は同二十九年に廃止されて県簡易農学校となった。同三十二年に校名が茨城県農学校と改称され、翌三十三年東茨城郡常磐村(現在の緑町二丁目)に新築開校した。同三十四年には茨城県立農学校と改称され、この校名は茨城県立水戸農学校と改称される大正十二年までつづいた。明治三十四年の実習田は八反二畝二二歩(約八二アール)であった。大正時代になると農場の規模は拡大され、その面積は水田一町五反歩、畑三町歩となった。昭和二十三年の新制高等学校の設置により、県立水戸農業高等学校となり、後に那珂町に移転した。

明治40年の茨城県立農学校(明治40年特別大演習記念写真帖より)

 その後、その跡地には、明治百年記念事業の一環として茨城県歴史館が建設され、昭和四十九年に開館した。ここには、原始古代から、近代に至る迄の県内の史料が数多く所蔵保管されており、また敷地内には県指定文化財の旧水海道小学校校舎、旧茂木家宅(江戸時代の農家建築)などがある。
 その他、この地には、水戸市消防本部、県社会教育研修センターなどの施設もある。
 木ノ折町は、昭和四十三年五月に緑町一丁目、緑町二丁目となった。