水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

八幡町(はちまんちょう)


八幡町(はちまんちょう)

八幡町(やはたちょう)
 八幡町は、東は根本町・下金町、南は下金町、西は松本町・馬口労町、北は根本町に隣接していた。
 藩政時代の八幡町は、下金町の穀町入口より八幡宮の社内にいたる通路のところであった。もとこの道路の両側には、本了寺・本伝寺・常円寺・慈現院などの寺院があったが、寛文六年(一六六六)これらの寺院をすべて破却し、その跡地を藩士の宅地としたことにより、この地は新割と呼ばれた。その後、宝永三年(一七〇六)に白旗山八幡宮がこの地に移されてきてから、八幡町の町名が付けられた。
 八幡宮は、文禄元年(一五九二)佐竹義宣が守護神として久慈郡太田(常陸太田市)から水戸(田見小路の場所)に分祀したもので、元禄七年(一六九四)に茨城郡那珂西村(常北町)へ移され、後に現在の地に移されて来た。八幡宮の参詣は、以前は下金町より下る太郎坂の中ごろより石段を登るのが本道であったが、それが明治維新ごろから現在のような下金町から入る参道に変った。八幡宮では、元旦祭から大祓まで毎月種々の神事が行なわれており、中でも四月十五日の例大祭は盛大である。なお慶長三年(一五九八)ごろに建立された桃山様式の本殿は国指定の重要文化財になっている。

太郎坂からの八幡宮参道(八幡町)


安政期の八幡町

 八幡宮の崖下にある神明宮は、もと八幡宮の摂社で、湧泉があり八幡宮の契斎所となっていたが、文久年間に八幡宮から分離した。
 九代藩主斉昭は、この町に接する常葉村の地に武器製作所をつくり、八幡町には鉄砲筒師・鉄砲銅物師・刀工・鎧甲制作師・鎧甲塗師などを住わせたため、この一帯は藩の兵工廠のような町となっていた。またその周囲には、石工・左官・大工などの職人も住んでいた。
 この藩の武器製作所の跡には、明治十四年に同じ常磐村字松本の地から常磐小学校が移転して来た。この小学校は明治六年に創立され、村内の字松本・字風呂ノ下・字神崎に分立していたのを同八年に併合したもので、その後名称を三度改め、昭和十二年には西原町(現在の市立常磐小学校の場所)に移転した。
 なお、この小学校の南には常磐村役場が、昭和八年常磐村が水戸市に合併するまであった。
 明治六年には第二大区第四小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市八幡町となった。

明治42年の八幡町

 大正十五年にはこの町に井戸の数が三七、昭和四年には四四あった。
 昭和九年の町区域の変更のとき、もと常磐村で水戸市合併時に松本町となった所の一部が八幡町に編入されている。
 八幡町(やはたちょう)は、昭和四十三年五月に八幡町(はちまんちょう)となった。
 この地の中心は八幡宮であり、茨城百景の烈公御涼所(ここは北側の崖上にあり、遠く久慈の山々や那珂川を望むことの出来る景勝地である)・お葉付銀杏(いちょう)(国指定天然記念物、樹齢七百年、樹高三五メートル、幹回り六メートル)などがある。そのほかに、昭和四十九年に開設された八幡荘(老人福祉センター)がある。